国語辞典はなぜ五十音順なのか
立教大学文学部書店トークイベント記録
2020/04/05
文学部書店トークイベント
OVERVIEW
2019年にジュンク堂書店 池袋本店と連携して行われた「立教大学文学部書店~池袋に文化の灯台を~」。文学部教員約60名が約700点近い選書を行ったほかさまざまなイベントが行われました。ここでは2019年9月24日に行われた文学科日本文学専修の平井吾門准教授によるトークイベントの記録をご紹介します。
国語辞典はなぜ五十音順なのか
文学科日本文学専修 平井 吾門 准教授
五十音図の疑問を歴史的視点で読み解く
なぜ「五十音図」と言うのか。なぜヤ行は「や・ゆ・よ」の3つしかないのか。「ん」はなぜ「わ」の横に飛び出ているのか。こうした五十音図に関する疑問の多くは歴史的な視点で読み解くことができます。
江戸時代以前は「いろは歌」が多く用いられてたが、明治以降、西洋言語学の英知を取り入れて近代的に整備されたのが五十音図である、というのはよくある誤解です。五十音図が成立したのは平安時代の中頃で、いろは歌とほぼ同時代であることが知られています。ここではその成立について考えてみたいと思います。
古代インド語で使われた文字や音のことを「悉曇(しったん)」といいます。五十音図はどういうふうに出来上がったかといえば、まずこの悉曇の影響があります。日本語で使う仮名は、1文字で子音と母音がくっついている音節文字です。日本人が学んだ外国語の最たるものは中国語、つまり漢字ですが、それとは別にかつて日本人のお坊さんがインド語を勉強した歴史があります。お坊さんが読むのは漢字で書かれたお経ですが、読んでいくなかで、インド語が必要になってくる場面があり、それは何かと言うと、呪文の類いです。「アダブラカタブラ」などの呪文は“音自体”が大事なわけですよね。昔の日本人も呪文にあたるインド語の文字をどう読めばいいのかとか苦労したわけですが、その学びを悉曇学と言います。悉曇で使われる梵字は、音素文字です。音素文字というのは、簡単に言えばアルファベットのように子音と母音に分解して表記することができるものです。つまり古代日本人でお坊さんたちの一部は、アルファベットに出会う前から音素文字を操っていたのです。この知識によって、日本語を子音と母音に分解して考察することが可能となり、日本語にはない子音だけの発音をするようなこともできました。逆転した言い方になりますが、古代インド語には悉曇章という五十音図のようなものがあり、その中で日本語に使われている音だけを拾い出していくと、結果的に五十音図が出来上がります。ただ、古代インド語の方が日本語よりも使う音が多かったため、悉曇学だけでは日本語で使う音だけを抜き出して図表にする必要性がありません。別の動機も必要となります。
五十音図が成立したもう1つの動機としては、漢字の音を学習するという側面があります。古代中国語も日本語より複雑な音の体系を持っていたため、日本人は漢字の正しい発音がなかなか身につきませんでした。正確な発音には、子音と母音を分解して示した発音表記である「反切(はんせつ)」をしっかり勉強しなければなりませんが、子音と母音が一体化した言語を使う日本人にはやはり難しかった。そこで、その人たちが日本語の音の中でできることをいろいろと工夫をしていきます。その流れの中で、五音という概念が日本語の中で登場します。日本語というのは、音の響きを変更することができるのではないか。五十音図の知識を先取りして言えば、同じ行や段に属していたりするものは、お互いに替えても意味が通じるのではないか、というようなことが考えられました。「居」という字は、古文の中で「いる」とも「おる」とも読みますよね。「いる」はワ行の「ゐ」ですけれども。「ゐる」ともワ行の「をる」とも書きますが、今でも方言なんかで「いる」とか「おる」とか言いますよね。結局、日本語には交替しても意味が変わらない似たような五つの音の組み合わせが何通りかあるという考えが、日本人の中に出てきます。音を似たようなまとまりの中で変化させる技を身につければ、「この漢字はあの漢字の音を五音の中で変化させれば良いのだ」というように、複雑な中国語の音も日本語の音の中で理解しやすくなります。もちろんそこには様々な無理があり、単純にはいきません。しかし、より言語に長けた人がいれば、日本語の音の体系の中で中国語の音を理解させる手引きを作ることが出来るわけです。ここに、二つの動機が結び付く契機が生じます。
つまりこの五音を使って漢字の音を学習していく際に、子音や母音の扱いに長けた悉曇学の知識を使えば体系的な図表を作ることが可能となり、結果として五十音図が作られたです。
江戸時代以前は「いろは歌」が多く用いられてたが、明治以降、西洋言語学の英知を取り入れて近代的に整備されたのが五十音図である、というのはよくある誤解です。五十音図が成立したのは平安時代の中頃で、いろは歌とほぼ同時代であることが知られています。ここではその成立について考えてみたいと思います。
古代インド語で使われた文字や音のことを「悉曇(しったん)」といいます。五十音図はどういうふうに出来上がったかといえば、まずこの悉曇の影響があります。日本語で使う仮名は、1文字で子音と母音がくっついている音節文字です。日本人が学んだ外国語の最たるものは中国語、つまり漢字ですが、それとは別にかつて日本人のお坊さんがインド語を勉強した歴史があります。お坊さんが読むのは漢字で書かれたお経ですが、読んでいくなかで、インド語が必要になってくる場面があり、それは何かと言うと、呪文の類いです。「アダブラカタブラ」などの呪文は“音自体”が大事なわけですよね。昔の日本人も呪文にあたるインド語の文字をどう読めばいいのかとか苦労したわけですが、その学びを悉曇学と言います。悉曇で使われる梵字は、音素文字です。音素文字というのは、簡単に言えばアルファベットのように子音と母音に分解して表記することができるものです。つまり古代日本人でお坊さんたちの一部は、アルファベットに出会う前から音素文字を操っていたのです。この知識によって、日本語を子音と母音に分解して考察することが可能となり、日本語にはない子音だけの発音をするようなこともできました。逆転した言い方になりますが、古代インド語には悉曇章という五十音図のようなものがあり、その中で日本語に使われている音だけを拾い出していくと、結果的に五十音図が出来上がります。ただ、古代インド語の方が日本語よりも使う音が多かったため、悉曇学だけでは日本語で使う音だけを抜き出して図表にする必要性がありません。別の動機も必要となります。
五十音図が成立したもう1つの動機としては、漢字の音を学習するという側面があります。古代中国語も日本語より複雑な音の体系を持っていたため、日本人は漢字の正しい発音がなかなか身につきませんでした。正確な発音には、子音と母音を分解して示した発音表記である「反切(はんせつ)」をしっかり勉強しなければなりませんが、子音と母音が一体化した言語を使う日本人にはやはり難しかった。そこで、その人たちが日本語の音の中でできることをいろいろと工夫をしていきます。その流れの中で、五音という概念が日本語の中で登場します。日本語というのは、音の響きを変更することができるのではないか。五十音図の知識を先取りして言えば、同じ行や段に属していたりするものは、お互いに替えても意味が通じるのではないか、というようなことが考えられました。「居」という字は、古文の中で「いる」とも「おる」とも読みますよね。「いる」はワ行の「ゐ」ですけれども。「ゐる」ともワ行の「をる」とも書きますが、今でも方言なんかで「いる」とか「おる」とか言いますよね。結局、日本語には交替しても意味が変わらない似たような五つの音の組み合わせが何通りかあるという考えが、日本人の中に出てきます。音を似たようなまとまりの中で変化させる技を身につければ、「この漢字はあの漢字の音を五音の中で変化させれば良いのだ」というように、複雑な中国語の音も日本語の音の中で理解しやすくなります。もちろんそこには様々な無理があり、単純にはいきません。しかし、より言語に長けた人がいれば、日本語の音の体系の中で中国語の音を理解させる手引きを作ることが出来るわけです。ここに、二つの動機が結び付く契機が生じます。
つまりこの五音を使って漢字の音を学習していく際に、子音や母音の扱いに長けた悉曇学の知識を使えば体系的な図表を作ることが可能となり、結果として五十音図が作られたです。
「説明のしやすさ」で広まっていった五十音図
次に、五十音が辞書と結びつく過程を見てみます。江戸時代までの国語辞書は、簡単に言ってしまえば漢字の訓読みを示すものでした。「悪人」という中国語に対して、これは悪い人のことなんですよといったら、「ああそうか、悪い人か」と。しかし、江戸時代の中頃に、辞書の中にさらなる説明を入れたものが出てくるようになります。
平安時代に興った悉曇学は、江戸時代に入っても脈々とお坊さんの世界で行われていました。そういう中で、言語についての知見を持っていた彼らは、日本語についてもいろいろな分析を独自に行っています。日本で最初に五十音順に並べた辞書は、室町時代に作られた『温故知新書』なのですが、これも悉曇との関わりが指摘されています。あるいは1646年に作られた『韻鏡図』では、動詞の活用を五十音図に当てはめています。今の私たちにとっては当たり前ですが、「書か・書き・書く・書け」といったように、五十音順の中で動詞活用を変化させています。
名高い契沖が本邦初の「五十音図」という言葉を使った人物として知られていますが、続く谷川士清(ことすが)という人物が、五十音順で整理した、いわゆる言葉の説明まで付け加えた国語辞書を初めて作ります。『倭訓栞(わくんのしおり)』と言います。原稿を書き始めた当最初は少ない語数でしたが、どんどん新しい語を取り込んでいき、外来語をも取り込んで、いわゆる国語辞書、その時代の国語の総体を表すような、すごい辞書を創り上げていきます。彼はそれを最初はいろは順に並べていたようですが、最終的に五十音順に並べます。当時も悉曇学というのは専門家が扱うマニアックな学問ですから、五十音順なんて一般人は知らない。みんなが知っているのはいろは順。しかし彼は五十音順を使います。なぜかというと、五十音順で説明するとすごく分かりやすいんです。たとえば夏って暑いですよね。暑いの「あつ」と「なつ」は音と意味が通じている、暑いから夏というのだ、などというように語源から意味を説明できるようになります。日本語は五十音の体系の中で音と意味が縦横に通じ合っているのだ、動詞も五十音順で活用しているではないか、というとすごく分かりやすいわけです。
そういう説を積極的に取り込んでいた。実際には怪しいところもありますが、いろは順では説明しきれなかったようなものを、説得力をもって説明することができます。だからこそ人々に不慣れな並び方であっても、江戸時代の中頃に五十音順の辞書が出てくるわけですね。分かりやすいように付録で五十音図も載せています。つまり、言葉の世界を五十音で説明していくために、五十音そのものを啓蒙したと考えられるのです。明治に入ってからは、五十音図が学校教育の中でも認められるようになります。明治の人にとってもいろは順の方が最初は当たり前でしたが、頑張って五十音の辞書を引いていくうちに、やがては五十音の辞書だけが今に生き残っているというような状況になったのです。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。
平安時代に興った悉曇学は、江戸時代に入っても脈々とお坊さんの世界で行われていました。そういう中で、言語についての知見を持っていた彼らは、日本語についてもいろいろな分析を独自に行っています。日本で最初に五十音順に並べた辞書は、室町時代に作られた『温故知新書』なのですが、これも悉曇との関わりが指摘されています。あるいは1646年に作られた『韻鏡図』では、動詞の活用を五十音図に当てはめています。今の私たちにとっては当たり前ですが、「書か・書き・書く・書け」といったように、五十音順の中で動詞活用を変化させています。
名高い契沖が本邦初の「五十音図」という言葉を使った人物として知られていますが、続く谷川士清(ことすが)という人物が、五十音順で整理した、いわゆる言葉の説明まで付け加えた国語辞書を初めて作ります。『倭訓栞(わくんのしおり)』と言います。原稿を書き始めた当最初は少ない語数でしたが、どんどん新しい語を取り込んでいき、外来語をも取り込んで、いわゆる国語辞書、その時代の国語の総体を表すような、すごい辞書を創り上げていきます。彼はそれを最初はいろは順に並べていたようですが、最終的に五十音順に並べます。当時も悉曇学というのは専門家が扱うマニアックな学問ですから、五十音順なんて一般人は知らない。みんなが知っているのはいろは順。しかし彼は五十音順を使います。なぜかというと、五十音順で説明するとすごく分かりやすいんです。たとえば夏って暑いですよね。暑いの「あつ」と「なつ」は音と意味が通じている、暑いから夏というのだ、などというように語源から意味を説明できるようになります。日本語は五十音の体系の中で音と意味が縦横に通じ合っているのだ、動詞も五十音順で活用しているではないか、というとすごく分かりやすいわけです。
そういう説を積極的に取り込んでいた。実際には怪しいところもありますが、いろは順では説明しきれなかったようなものを、説得力をもって説明することができます。だからこそ人々に不慣れな並び方であっても、江戸時代の中頃に五十音順の辞書が出てくるわけですね。分かりやすいように付録で五十音図も載せています。つまり、言葉の世界を五十音で説明していくために、五十音そのものを啓蒙したと考えられるのです。明治に入ってからは、五十音図が学校教育の中でも認められるようになります。明治の人にとってもいろは順の方が最初は当たり前でしたが、頑張って五十音の辞書を引いていくうちに、やがては五十音の辞書だけが今に生き残っているというような状況になったのです。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。