『失われた時を求めて』だけでも長いのに、あわせて読みたい100冊
立教大学文学部書店トークイベント記録
2020/04/04
文学部書店トークイベント
OVERVIEW
2019年にジュンク堂書店 池袋本店と連携して行われた「立教大学文学部書店~池袋に文化の灯台を~」。文学部教員約60名が約700点近い選書を行ったほかさまざまなイベントが行われました。ここでは2019年9月6日に行われた文学科フランス文学専修の坂本浩也教授によるトークイベントの記録をご紹介します。
『失われた時を求めて』だけでも長いのに、あわせて読みたい100冊
文学科フランス文学専修 坂本 浩也 教授
他の作家の本がプルーストを読むきっかけに
プルーストの『失われた時を求めて』は20世紀を代表する小説ですが、とにかく長い。岩波文庫(吉川一義訳)で14冊。「入院しなければ読めない」と言われることもあります。私は「新訳でプルーストを読破する」という全14回の公開セミナーを立教大学で開催し、毎回ちがう研究者や作家をお招きして、この大作をどんなふうに読んできたのか、話をうかがいました。岩波書店のウェブマガジン「たねをまく」にイベントレポートが掲載されているので、ぜひ眺めてみてください。
私自身がプルーストを初めて読破したのは、大学1年の秋から2年の夏にかけてです。当時ちくま文庫から「月刊プルースト」のようなペースで出ていた全10巻の井上究一郎訳で読みました。告白すると、高校までは、もっぱらミステリ、SF、ファンタジーなど、今でいうエンタメ小説の読者で、「名作」や「純文学」なんてつまらないはずと思いこんで無視していたのですが、高校2年生のころに転機が訪れました。きっかけは2つ。ミステリに「日常の謎」と呼ばれるサブジャンルがあります。その元祖・北村薫のデビュー作『空飛ぶ馬』が出版されたのは、ちょうど私が高校生のころです。主人公「私」は文学部の女子学生で、必ず毎日1冊、本を読むことにしている(ちなみに毎日新しい本を1冊読むのは大変だから、うすい文庫を読みなおしてもいい)。なぜか自分でもこのルールをしばらく真似しながら、ミステリを通じて、文学部生の読書というものをイメージしはじめました。
ミステリと並んで、エンタメから古典への橋渡しをしてくれたもうひとつのジャンルが、歴史小説です。世界史の先生が、古代ローマ帝国をあつかう授業で、辻邦夫の『背教者ユリアヌス』を紹介してくれました。これは生きることを力強く肯定する青春小説でもあります。辻邦夫自身が、この作品を「詩的な晴れやかさ、喜ばしさで包みたいと思った」と語っているのですが、その手本となる作家のひとりとしてプルーストをあげていることも知りました。ちょうど出たばかりだったエッセー集『永遠の書架に立ちて』のなかで辻邦生がプルーストを論じている文章を読んだのが、私のプルーストとの出会いです。
そこで高校の図書室にあった新潮社版の『失われた時を求めて』を借りた。でも何ページ読んだかといえば、せいぜい5ページ。だって、それまで物語に入りやすいエンタメしか読んでないのに、冒頭はきわめつけの難所なのです。だから、まったく歯が立たないといったん諦め、大学に入ってから、タイミングよく文庫化されはじめた井上訳を読んだわけです。それまで読んだことのないタイプの文学作品を読み続けられるかどうかは、その作品のなかの何に関心をもてるかで決まると思います。ふりかえってみると、私がはじめて『失われた時を求めて』を読みとおしたときは、ストーリーをたどるよりも、むしろ格言と比喩の宝庫だと思って、エッセーや散文詩のように読んでいました。プルーストの小説には鋭い人間観察にもとづく名言や独特の意外な比喩が出てきます。そうした表現をコレクションするようにして、ページの端を折りながら読み進めました。
大学に入ってすぐ読んでいた本に、佐藤信夫の『レトリック感覚』や『レトリック認識』があります。比喩とは認識の問題だと論じた名著で、プルーストと響きあうところがある。『失われた時を求めて』の最終篇『見出された時』によると、「作家にとって文体とは、画家にとっての色彩と同じで、テクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題」である。「文体とは、世界がわれわれにあらわれるそのあらわれかたの質的相違を明らかにするもの」であり、「われわれは芸術によってのみ」「この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。」
私が最初に読んだプルースト研究は、平井啓之の『ランボオからサルトルへ フランス象徴主義の問題』のなかの一章です。「特権的瞬間」と呼ばれる有名な場面を取りあげながら、sensualité(肉感性、感覚性、官能性)と知性の関係を論じたものです。その講談社学術文庫版の解説で哲学者ジル・ドゥルーズに言及している蓮實(重彦)先生の本も、映画ファンだった周囲の友人に刺激されて読みあさった。そんなふうにして、現代思想や新しい批評に関心をもちながら、プルーストを読みこもうとしたのが学部時代です。
私自身がプルーストを初めて読破したのは、大学1年の秋から2年の夏にかけてです。当時ちくま文庫から「月刊プルースト」のようなペースで出ていた全10巻の井上究一郎訳で読みました。告白すると、高校までは、もっぱらミステリ、SF、ファンタジーなど、今でいうエンタメ小説の読者で、「名作」や「純文学」なんてつまらないはずと思いこんで無視していたのですが、高校2年生のころに転機が訪れました。きっかけは2つ。ミステリに「日常の謎」と呼ばれるサブジャンルがあります。その元祖・北村薫のデビュー作『空飛ぶ馬』が出版されたのは、ちょうど私が高校生のころです。主人公「私」は文学部の女子学生で、必ず毎日1冊、本を読むことにしている(ちなみに毎日新しい本を1冊読むのは大変だから、うすい文庫を読みなおしてもいい)。なぜか自分でもこのルールをしばらく真似しながら、ミステリを通じて、文学部生の読書というものをイメージしはじめました。
ミステリと並んで、エンタメから古典への橋渡しをしてくれたもうひとつのジャンルが、歴史小説です。世界史の先生が、古代ローマ帝国をあつかう授業で、辻邦夫の『背教者ユリアヌス』を紹介してくれました。これは生きることを力強く肯定する青春小説でもあります。辻邦夫自身が、この作品を「詩的な晴れやかさ、喜ばしさで包みたいと思った」と語っているのですが、その手本となる作家のひとりとしてプルーストをあげていることも知りました。ちょうど出たばかりだったエッセー集『永遠の書架に立ちて』のなかで辻邦生がプルーストを論じている文章を読んだのが、私のプルーストとの出会いです。
そこで高校の図書室にあった新潮社版の『失われた時を求めて』を借りた。でも何ページ読んだかといえば、せいぜい5ページ。だって、それまで物語に入りやすいエンタメしか読んでないのに、冒頭はきわめつけの難所なのです。だから、まったく歯が立たないといったん諦め、大学に入ってから、タイミングよく文庫化されはじめた井上訳を読んだわけです。それまで読んだことのないタイプの文学作品を読み続けられるかどうかは、その作品のなかの何に関心をもてるかで決まると思います。ふりかえってみると、私がはじめて『失われた時を求めて』を読みとおしたときは、ストーリーをたどるよりも、むしろ格言と比喩の宝庫だと思って、エッセーや散文詩のように読んでいました。プルーストの小説には鋭い人間観察にもとづく名言や独特の意外な比喩が出てきます。そうした表現をコレクションするようにして、ページの端を折りながら読み進めました。
大学に入ってすぐ読んでいた本に、佐藤信夫の『レトリック感覚』や『レトリック認識』があります。比喩とは認識の問題だと論じた名著で、プルーストと響きあうところがある。『失われた時を求めて』の最終篇『見出された時』によると、「作家にとって文体とは、画家にとっての色彩と同じで、テクニックの問題ではなく、ヴィジョンの問題」である。「文体とは、世界がわれわれにあらわれるそのあらわれかたの質的相違を明らかにするもの」であり、「われわれは芸術によってのみ」「この世界を他人がどのように見ているかを知ることができる。」
私が最初に読んだプルースト研究は、平井啓之の『ランボオからサルトルへ フランス象徴主義の問題』のなかの一章です。「特権的瞬間」と呼ばれる有名な場面を取りあげながら、sensualité(肉感性、感覚性、官能性)と知性の関係を論じたものです。その講談社学術文庫版の解説で哲学者ジル・ドゥルーズに言及している蓮實(重彦)先生の本も、映画ファンだった周囲の友人に刺激されて読みあさった。そんなふうにして、現代思想や新しい批評に関心をもちながら、プルーストを読みこもうとしたのが学部時代です。
すぐれた書物は、作者の「結論」が読者を「そそのかす」
卒業論文、修士論文、博士論文で、ずっとプルーストを研究してきました。といっても、プルーストの作品を読むだけでは限界があります。簡単にいうと、ナラトロジー(物語論)とテマティック(主題論)から脱構築へと関心が移った卒論の時代、メディア論と言語行為論、表象文化史について興味を広げた修論の時代、とくにモデルニテ(現代性)と第一次世界大戦の問題を調査・分析した博論以降と、ずっとプルースト以外の本を読んできました。プルーストのように研究の蓄積が豊富な作家を論じるには、他の研究者が読んでいないものを読むことが重要になります。たとえば私の場合、学部時代から現代思想に親しんでいたことが、パリのソルボンヌという伝統的な大学に留学したとき、逆にメリットになったと思います。そうして、いろいろな方法論を知ったうえで、最終的にはプルーストの草稿研究と文化史の両方をふまえた作家論、つまり作品を単なる歴史の資料とみなすのではなく、同時代のさまざまなイメージをめぐる論争の舞台に置きなおし、そのなかで作品の独自性を明らかにしていく方針が確立していきました。
今回お配りした100冊リストの後半には、プルーストの愛読書、特に17世紀と19世紀のフランス文学と、さまざまな外国文学をあげています。ほかにも、『失われた時を求めて』と読み比べてみると面白い同時代の作品や、プルーストの後継者とみなせる作家たちの小説、さらには、プルーストとの接点がある日本の小説も列挙してみました。気になる作品があれば、この機会にぜひ読んでみてください。
最後にプルーストを引用して終わりたいと思います。プルーストは「読書について」という評論のなかで、こんなことを言っています。「すぐれた書物とは作者にとって「結論」と呼ばれうるものであっても、読者にとっては「はげまし」の別名でありうるということだ」。そんな書物を読むと、「作者の知恵が終わるところで私たちの知恵が始まる、ということがはっきりと感じられる。私たちはつい作者が答えを与えてくれることを望んでしまうのだが、作者にできるのはせいぜい、私たちに欲望を与えることなのだ。」「はげまし」の原語incitationsは、「そそのかし」とも訳せます。本を読みおわったときに、作者の「結論」を受け入れて満足するのではなく、そこからさらに先へ読んでいくような冒険を続けていこう。プルーストは私たちにそう呼びかけているのだと思います。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。
今回お配りした100冊リストの後半には、プルーストの愛読書、特に17世紀と19世紀のフランス文学と、さまざまな外国文学をあげています。ほかにも、『失われた時を求めて』と読み比べてみると面白い同時代の作品や、プルーストの後継者とみなせる作家たちの小説、さらには、プルーストとの接点がある日本の小説も列挙してみました。気になる作品があれば、この機会にぜひ読んでみてください。
最後にプルーストを引用して終わりたいと思います。プルーストは「読書について」という評論のなかで、こんなことを言っています。「すぐれた書物とは作者にとって「結論」と呼ばれうるものであっても、読者にとっては「はげまし」の別名でありうるということだ」。そんな書物を読むと、「作者の知恵が終わるところで私たちの知恵が始まる、ということがはっきりと感じられる。私たちはつい作者が答えを与えてくれることを望んでしまうのだが、作者にできるのはせいぜい、私たちに欲望を与えることなのだ。」「はげまし」の原語incitationsは、「そそのかし」とも訳せます。本を読みおわったときに、作者の「結論」を受け入れて満足するのではなく、そこからさらに先へ読んでいくような冒険を続けていこう。プルーストは私たちにそう呼びかけているのだと思います。
※記事の内容は取材時点のものであり、最新の情報とは異なる場合があります。