真理を味わう行為としての「読書」

立教大学文学部書店トークイベント記録

2020/04/01

文学部書店トークイベント

OVERVIEW

2019年にジュンク堂書店 池袋本店と連携して行われた「立教大学文学部書店~池袋に文化の灯台を~」。文学部教員約60名が約700点近い選書を行ったほかさまざまなイベントが行われました。ここでは2019年5月27日に行われた文学部長の西原廉太教授によるトークイベントの記録をご紹介します。

真理を味わう行為としての「読書」

キリスト教学科教授・文学部長 西原 廉太 教授

真理を味わうために必要なのがリベラルアーツ

立教大学文学部の英語表記は「College of Arts」で、「リベラルアーツそのものを徹底して探究するカレッジ」ということを意味します。立教大学全体がリベラルアーツを基本にしているため、文学部は大学の根幹を支える学部であると考えています。そして、時代を、あるいは空間を超えて真理を探求する場が立教大学文学部です。

カレッジのルーツは12世紀13世紀に遡りますが、修道院から派生したもので、教員と学生が共に祈り、生活し、学ぶ空間のことでした。真理を探究する無限の旅を共にする場、それがカレッジだったのです。そしてこの真理を味わうために必要だったのがリベラルアーツです。

12、13世紀ごろにカレッジにおける標準理論は、神の存在が大前提で、神は2つの書物を書いたとされています。第1の書物が聖書。そして第2の書物が「自然や宇宙や人体」です。自然、宇宙、人体も書物、つまりテキストだと考えられていたのです。それらを基にリベラルアーツが生まれるわけですが、7つのカリキュラムで構成されていました。

「自由七科」と訳されますが、これらは3科と4科に分かれます。3科(文法、修辞法、論理学)は、第一のテキストを読むための技法、カリキュラムです。そして、第2の書物である自然、宇宙、人体というテキストを読むための技法として4科(算術、幾何、音楽、天文学)が存在しました。

大学の起源である、12世紀、13世紀頃につくられた学部はおおむね、神学部、医学部、法学部の3つです。神学部は、第1のテキストである聖書を基本としながらキリスト教の学問を担います。医学部は、第2のテキストのうち、人体をテキストとして読み解く。そして法学は、社会の仕組みや人々の生き方などを研究します。それのためには神と人間の契約書を研究しなければならないわけです。その契約書が『旧約聖書』と『新約聖書』でありました。神と人間の古い契約書が『旧約聖書』であり、新しい契約書が『新約聖書』なのです。そのため、医学も法学も広い意味では神学であったと言えるのです。

神学部を出れば聖職者になる。医学部を出れば医者になる。そして、法学部を出れば法律家になるわけですが、こうした人たちを共通して聖職者と呼んでいました。英語で職業という言葉にvocationというものがあります。語源はラテン語のvocareというところから来ています。これは日本語で「召命」という意味です。召命とは神様に与えられた使命に召されるということ。そしてそういう職業が、司祭であったり、医者であったり、法律家なのです。これらは皆、この世界や社会に生きている人々の痛みや苦しみ、悲しみに寄り添って、その痛みや苦しみを共感して担う。そして、それを解決に結び付けていくという仕事なのです。こうした神のミッションに召された人たちを生み育てるために、カレッジがつくられたわけです。

読書とは言葉をかみ砕きながら食べる行為

聖書は世界で一番売れている本ですが、立教大学でも最も最初から創立者であるウィリアムズ主教が大事にしていた書物です。ある人は聖書を「神の絵本」であると言います。神の働きという見えないものを文字という絵の具を使って描いている神の絵本であると。例えば、イエスが湖の上を歩いて船にいる弟子たちに近付いたという話があります。絵本の中の空想を読んだ際、「そんなことはあり得ない!」と本を閉じないように、子どもたちが絵本の世界に没頭するあの感性が、聖書を読む時にとても大切なのです。

作家の柳田國男さんが、「人は人生の中で三度違った形で絵本に出会う」と言っておられます。一度目は、子どもの時、すなわち絵本を読んでもらう時です。二度目は子どもを育てる時。今度は絵本を読み聞かせる立場で絵本と出会う時です。そして、三度目は人生の後半になってから、様々なことを体験して絵本の世界の奥深さへの気付きや発見が起こってくる時です。

歌人の俵万智さんの体験的読書論の中に『三びきのやぎのがらがらどん』が出てくるのですが、2歳から3歳のころ、この絵本を一日に何度もお母さんに読んでもらっていたそうです。子どもが同じ物語を読んでとせがむのは、読んでもらうたびに心が躍り、楽しいからだそうです。その楽しさを何度も確かめることができることほど喜びに満ちた時はないのだと。子どもというのは喜びを感じる時にこそ伸びやかに育つ。決して教訓や知識や理屈で育つわけではないとおっしゃっています。幼い俵さんもお母さんが読んでくれる絵本の物語を通して、それらの言葉が楽しみと喜びを与えてくれるものであることを体験されたのでしょう。言葉には、このように見えないものを見えるようにして生き生きとした喜びをもたらしてくれる力があるということを本能的に感じ取ったというふうに彼女は言うわけです。

俵万智さんの体験的読書論を読んでいますと、子どもというのは言葉を覚えるのではない。子どもは言葉を食べるといいます。自分に喜びをもたらしてくれるおいしい言葉を、子どもたちは食べて味わうのだと。そして、おいしい言葉を日々の糧として子どもたちにいわば口移しで食べさせることが親や大人の務めなのだと。

聖書に次のような有名な言葉があります。「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」。もちろんパンなどの食料は大事だけれども、それだけではないのだと。神から出る一つ一つの言葉でこそ、われわれは生きるということなのです

こうした発想は、実は聖書に限らないと思っています。読書というのは、「読む」というよりかは、言葉をかみ砕きながら「食べる」行為ではないのか。そしてそのことによって真理を味わう行為なのではないか。今日のテーマである、真理を味わう。そのために言葉をかみ砕きながらむさぼり食べる。まるで俵万智さんが絵本をむさぼり食べたように。

本を読むということは結局どういうことかというと、著者がいて、本があって、読者がいます。本には、著者の文脈、コンテキストといった意図があるわけですけれども、本は本(text)として生まれた瞬間に独立して歩くわけです。ある読者にとってはその人のコンテキスト(con-text)があり、その中でその人にとっての意味が生まれてきますし、また別の読者にとってはその人のコンテキストがあり、意味があるのです。つまり、多義的であり、どれが正解かということはないのです。著者の意図とはかけ離れているかもしれない。でも、そういうものです。それで良いのです。つまり聖書の解釈も人それぞれということなのです。


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