文学部の"使用法"

文学科文芸・思想専修 福嶋 亮大 准教授

2018/01/01

教員に聞く!文学部で学べること

OVERVIEW

文学科文芸・思想専修 福嶋 亮大 准教授に「文学部で学べること」と題して、インタビューしました。

効率を超えたものへの感性を育てる

私が所属している文学科文芸・思想専修は、文学と思想それぞれの領域に閉じこもるのではなく、文学を思想的に考える、あるいは思想を文学的な感性のもとで読んでいくといった横断的な仕組みを採用しています。

人間は言葉やイメージといった「表象」を「現実」と取り違えてしまう不安定な生き物です。だからこそ、フィクションを作ることができるし、プロパガンダに騙されることもある。こうした人間の危うさを理解し、表象への免疫を付ける必要があるわけです。これは伝聞情報に満ちたネット社会だからこそ必要な能力です。

文学を学ぶことは、即効性からは程遠いところにあると思われるかもしれません。しかし、恋愛でも育児でも何でもそうですが、人生にとって大切なものはたいてい「コスパ」が悪いものです。合理性を超えた何かとの出会いがなければ、人生は貧しくて閉鎖的なものになるし、成長もない。こうした「効率を超えたもの」への感性を育てていくことが、文学部の基本的な立場だと私は考えています。

大学卒業と同時に文学も卒業しないでほしい

とはいえ、そういう感性は大学の4年間だけで獲得できるものではありません。そもそも、文学や哲学の良いところは、それと一生付き合えるところにあるわけです。日本では、大学卒業と同時に文学や哲学も卒業してしまうひとが多いですが、それでは意味がない。たとえば、一冊の本を読むにしても、若いうちに自分なりの準拠点を作っておけば、ある程度歳を重ねてから別の読み方ができるようになったりする。大学はいつか卒業しないといけませんが、文学や哲学を卒業してはいけない。

大切なのは、情報と経験を結びつけることです。本を読んで情報を得ることはもちろん必要ですが、その種の情報は経験に裏打ちされないとなかなか使い物になりません。文学は授業や読書だけでは完結しないのであり、ふらっと美術館や古本屋をのぞいたり、友人と議論したり、一人旅したりすることすべて含めた全体が「文学」なんです。文学はこの総合性を失ってはいけないと考えています。

昔の学生には一種の「暗黙知」として、大学との付き合い方についてのエートス(習慣)があったわけですが、残念ながら現代ではその伝承は半ば途絶えているように見えます。しかし、家と教室をまじめに往復するだけになるとつまらない。私の演習ではたびたび学生を「遠足」に連れ出して、情報と経験を結びつける寄り道のチャンスを増やしています。学生の方も、大学時代にそれぞれの文学部の"使用法"を考え、大学を徹底的に使い込んでくれるとよいと思います。

(取材日:2018年1月)

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