卒業生からのメッセージ文学科英米文学専修

立教大学の英米文学専修(旧英米文学科)は、英学の場として建学された立教学校とともに歩み、140年の歴史を誇るとも言ってよい本学最古の伝統のもと、有為の人材を数多く社会に送り出してきました。映画監督の青山真治さん(1989年卒)や熊坂出さん(1998年卒、2008年ベルリン国際映画祭最優秀新人作品賞受賞)、日本テレビ・アナウンサー豊田順子さん(1990年卒)、フリーアナウンサーの町亞聖さん(1995年卒)など、みなさん、卒業生です。芸能・マスコミ関連のみならず、金融・保険、流通・運輸、IT、観光、官公庁、教育などを中心に、幅広い分野で卒業生が活躍しています。加えて、大学院へ進学したのち、研究者として大学で教鞭をとっている卒業生が多いのも特徴です。

近年の主要就職先
みずほフィナンシャルグループ、りそなホールディングス、三菱UFJ信託銀行、東京海上日動火災保険会社、住友商事、大和証券、集英社、株式会社NTTデータ、株式会社リーガルコーポレーション、チャイコフスキー記念東京バレエ団、経済産業省、そして関東近県の中学・高等学校など。

以下、卒業生からのメッセージをご紹介します。

2023年卒業生


文学部英米文学専修
小笠原 菜津子  (本学大学院文学研究科)
私は、大学卒業後、立教大学文学研究科英米文学専攻に進学し、アメリカ文学を研究する道を選びました。現在は、授業で扱われるテクストと日々向き合いながら、新たな問題意識を持って精読を進めたり、個人の研究をどのような切り口で進めていくのか、来年度の修士論文執筆に向けてあらゆる可能性を模索したりしています。数年前の私は、まさか自分が大学院生になるとは思ってもいませんでした。なぜ、大学院で研究する道を選択したのか。それは、英米文学専修における4年間の学びが充実したものであり、より本格的に研究をしてみたいという思いが強くなったからです。この文章を読んでくださっている方々には、自身の将来に悩み、何かヒントが得られないかとこのページに来てくださった方もいるのではないかと思います。私自身も、学部生のときに進路で迷い、このページを訪れたひとりでもあります。英米文学専修で学んだことがどのようなもので、それが今の自分にとってどのような意味を持つのか、これから綴らせていただく内容が少しでもお役に立てたら幸いです。

大学入学以前、私は、英米文学のテクストを楽しく読んだことがありませんでした。高校時代、定期テストごとに英語の本が配られ、その内容がテストで問われる「ホームリーダー」という試練があり、義務的に英語の本を読んでいました。自主的に読み進めなければならないため、忙しい高校生活を送る当時の私には内容を楽しむ余裕などなく、テストが近づけば近づくほど苦痛になるものでした。しかし、元々、空港のアナウンスから聞こえてくる英語が好きで「いつか英語を流暢に話せるようになりたい」という思いから、「英語を学ぶ」ことができる大学に進学したいと思っていました。

よく考えてみると、「英語を学ぶ」ということばはとても曖昧なことばかもしれません。「英語を学ぶ」とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。高校時代の私にとって、「文法や単語をたくさん覚える」ことや「覚えた文法や単語を使って会話したり作文したりする」ことが「英語を学ぶ」ことでした。確かに、文法や単語を最低限習得しなければ、流暢に話すことはできないし、学んだ文法や単語も実践的に使わなければ、自分のものにならないのもまた確かです。高校生の私が抱いていた「英語を学ぶ」ことに対する考え方は間違ってはいないと思います。しかし、英米文学専修の卒業生として強調したいのは、「英語を学ぶ」とは単にコミュニケーション手段として言語を習得するだけに留まらないということです。英米文学専修で「英語を学ぶ」ということは、英語によって紡がれたテクストをそれぞれの問題意識に沿って読み解き、その背景にある歴史的・社会的事情、作者の思い等を探り、同時に現代社会や私たちの人生そのものと向き合うことであると思います。

私は、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』を「家族」というテーマで卒業論文を執筆しました。社会的階級、エスニシティ、宗教、ジェンダーなどの視点から、家族の在り様やキャラクターの描写、人間関係等について考察し、家族の描写を南北戦争前後のアメリカが抱えていた社会問題と結びつけながら考えをまとめました。同時に、卒業論文を執筆するなかで、社会的規範に抗いながら自分の人生を切り拓いていこうとする主人公ジョーの生き方を目の当たりにし、果たして、女性を含めたあらゆるマイノリティの立場にある人々にとって現代は生きやすい世の中になっているのだろうか、そもそも人間が「幸せ」に生きるとはどういうことなのだろうか、という新しい問題意識が芽生えました。英語の原文と参考文献を丹念に読み込み、なかなかまとまらない考えを結び付けていく作業は、とても大変なもので精神が削られていくような気持ちでしたが、指導教授のご指導のもと、4年間の学びをひとつの形としてまとめられたことは今後の自信になりました。卒業論文を執筆するか否かで迷われている方には、断然執筆をおすすめします。

少し話は逸れてしまいましたが、改めて「英語を学ぶ」ことについて考えてみると、英語のテクストに対する向き合い方を学べる場所が立教の英米文学専修であると思います。私は、この4年間で、書かれた内容を鵜呑みにせず常に疑うことの重要性を学びました。情報を鵜呑みにしないという姿勢は、テクストと向き合う際にどのような問題意識を持つことができるかに直結します。そして、この心構えは、文学のテクストだけでなくこの世の中に溢れる情報と向き合う際にも重要な意味を持ちます。英米文学専修で身に付ける情報への向き合い方は、真偽の不確かな情報に溢れる現代社会においてこそ必要とされる生きる術であるといえます。だからこそ、私は英米文学専修で学んだことを誇りに思い、4年間の学びを礎としながら真摯に研究に打ち込み、社会の荒波の中で強く生きていきたいと思っています。


2022年卒業生


文学部英米文学専修
萩原 綾香  (株式会社CURIOUS PRODUCTIONS)
英米文学専修で学ばれている皆さん、そして立教英米を目指している高校生の皆さん、「学ぶ/学び」とは一体どういうことか、と聞かれたとして、皆さんは何と答えるでしょうか。大学に入れば四年も向き合うものなのに、これは意外と難しい問いかけです。とりわけその「意義」というものを明確に答えることは、我々、文学を相手にする人間にとって、簡単なことではありません。

時間を少し飛ばして、私の話をさきにすることにしましょう。この四月から、私は晴れて映像制作会社の一員として働くことになりました。ざっくりと説明すると、動画やテレビ番組のような映像コンテンツを、企画したり、演出したりする職業です。これだけでは何のことやら、という感じかもしれませんが、私は子ども向けの教育番組が大好きで、「いつかその制作に携わりたい」とずっと考えてきました。今はつまり、大学に入った頃からのその目標を、半分ぐらいは叶えた、ということになります。

しかし、すでにお気づきの人もいるように、私が大学で専攻していた内容は、今の職業とほとんど関わりがあるものではありません。おそらく映像学科や専門学校で専門的にその道の知識・技術を身に付けた人の方が、よほどしっかりした即戦力になることでしょう。ところが私はこの英米文学専修で学び卒業したことを、これっぽちも後悔したことはありません。それどころか、誇ってさえいるのです。それは何故でしょうか?

私たち人間が、言語でもって思考する生きものである以上、文学、つまり活字というものは人の思想、意図、感情といったものの表出、それそのものです。私たちが英米文学専修で身に付けるのは、それらを丁寧に紐解くための方法論であり、その結果としての知識の集積であるとも言えるでしょう。これは例えば、映像コンテンツを企画するとき、あるいは演出するときに、とても役に立つ技能です。動画もテレビ番組も、言ってしまえば、それに携わる人間たちの「こんなものを見せたい」「こんなふうに伝えたい」という多様な意図と、思想の上に成り立っているものですから。つまるところ、社会に出たとき私たちが向き合うことになるものというのは、思想、意図、感情、それをもつ他者……すなわち、「文学」と同じものであったようなのです。

文学なんてやったところで実際に役立つことはない、と言う人がいますが、それは大いなる誤解です。文学ほど、人生において実践的な知識は他にないでしょう。

言い換えれば、「学ぶ/学び」というのはつまり、生きていくための武器を磨く、ということでもあります。といっても、そう気負うことはありません。例えば、『On the Road』という作品があります。私が卒業論文の題目として扱った、アメリカの文学作品です。作者ケルアックの半自叙伝的な筆致による、ロードムービーのような、まさに人生の一部を切り取ったような大作ですが……はじめて本作を読んだときは、驚愕しました。時代性や修辞法といった評価はともかく、こんなにも、進歩も生産性もない物語があるなんて、と。それは読解の甘さから来る、いわゆる読み違え、というものだったのですが、「学ぶ」ことも実はこれとよく似ています。ケルアックの語りには、一目ではそれと気づけないほど繊細に、彼自身の孤独と生への希望が織り込まれていました。同様に、物事にどんな意味や価値、すなわち「学び」があるかは、すぐにはわからないことも多いのです。

もちろんこの回答は、この世界に数多ある論文と同じように、私という一個人の一解釈にすぎないものです。この文章に書いてあることすべてを、皆さんが真摯に受け止める必要はありません。それでもこの問いかけが、あるいはこのメッセージが、皆さんの今後の英米文学専修での「学び」をより実りあるものにする、何らかのきっかけとなれば幸いです。


2022年卒業生


文学部英米文学専修
笠原 茉実  (旭化成アミダス)
華やかで前向きなメッセージが並ぶこの場所で、私が書ける話はあるだろうかとしばらく悩みました。そうして達した結論は、飾らずに正直なところを述べるのが一番だろうということです。私には、今までの人生で「これを頑張った」と胸を張って言えるものがとりたててありません。そんなどこにでもいそうな卒業生として、私と同じように自分のことを「どこにでもいそうな」人間だと思っていらっしゃる方が少しでも気楽に学生生活を送るための役に立てればと思って書きましたので、よろしければ読んでみてください。

私は習い事も高校での部活動も中途半端に辞め、大学ではサークルに所属することもせず、学業の成績は特段良くもなく、親や先生に叱られるほどには悪くもなく、ただ平坦な日々を送ってきました。少しだけ器用な私は、「何となく」で多くのことを乗り越えていました。それでもそれなりには楽しいし、この先もどうにかなるだろうと迂闊に構えていた矢先、就職活動が始まりました。「何を頑張ってきましたか」「何ができますか」と問われる日々の中、私には何もない、と怖くなりました。書類審査で落とされ、面接で落とされ、私は必要とされていない、価値のない人間だと感じるようになりました。そうした失意と自棄のなか、私を救ってくれたものが、アメリカのアニメ『スポンジ・ボブ』でした。

スポンジ・ボブの世界では、「役に立つ」ことより「楽しい」ことが正義であり、ボブたちは「なぜ生きるのか」を問わず、ナンセンスをひたすらに生きています。それは私の偏狭な価値観を引っくり返すものでした。また、ふとしたきっかけで読んだ、吉野弘さんの「I was born」という詩に涙が溢れたこともあります。この詩のもつ不思議な哀しさとあたたかさに、救われたと思いました。「なぜ生きる、何のために生きている」という問いに悩むより、「I was born」——とにかく自分はこの世に生まれたんだ——という生き方をしていいのだと、みずからの存在を認められた気がしました。「なぜ」という問いに対して、「生まれたから」以上の答えを無理に見つけようとしなくてもいいやという、いい意味での「諦め」がついたのかもしれません。

英米文学を専攻するなかでは、「老い」やジェンダーなど、私の当たり前を大きく変えるテーマについての学びが沢山ありました。「アンチエイジング」という言葉の根底には、「老い」への否定的な捉え方がないだろうか。女性の能力を評価するのに使われる「男勝り」という言葉は、女性が劣っていることを前提にしたものではないだろうか。人はしばしば珍しいものを身にまといそれを「個性」と呼んでいるけれど、果たして純粋な「個性」は存在するのだろうか。大学へ入り、それまでは思いつきもしなかったことを考える機会が増えました。

冒頭で私は、今まで何もしてこなかった、私には何もない、と言ってしまいましたが、本当は「何もない」などということはあり得ないのだと思います。何もしてこなかったと無力感を抱くことはあっても、「何も得られなかった」わけではありません。さまざまな文学作品に触れ、考える機会を得て、知らなかった世界を知ることができただけでも、私はこの大学に入ってよかったと思っています。また、辛い時に読みたい本があること、観たい映画があること、聴きたい音楽があること、アニメでも漫画でも、自分の側に作品があるのはすごく幸せなことです。

私は4月からIT系の企業で働き始めました。文学部なのに文学と関係ないじゃないか、と言われれば、まあそんな気もします。それでも、働くうえで読解力を求められる機会は勿論ありますし、「考える」という行為そのものが、何処へ行っても活きる「武器」になると信じています。働くのが楽しいだとか、大変だとか、やりがいが、などとそれらしいことを語るには経験が浅すぎるかなぁと思いますが、「何処で働くか」だけに目を向けるのではなく、「今いる場所で何をするか」をより大切にしてほしいです。どうしようもなく不安な時には、「入ってみないと分からないことは入ってから考える」くらいの楽観的な見方をするのもアリだと思います。幸い、入社後に出会った同期や先輩方は親切で面白い方ばかりです。

最後に、いま取り組んでいる、またはやろうとしていることが、時間の無駄だと感じたり、他人から「何の役に立つのか」と問われたりするかもしれません。しかし、知識や経験はどこかで互いと繋がりあい、私たちの世界を広げてくれるはずです。私から何かアドバイスをするならば、あまり「無駄」を嫌わずに(そもそも無駄は悪じゃないと思います!)好きなことを追求してほしい、ということでしょうか。皆さんが自分のペースで楽しい大学生活を送られることを、心から願っています。


2021年卒業生


文学部英米文学専修
宇都 瑞希  (横須賀学院 英語科専任教諭)
英米文学専修での4年間の学びは他者との関わり方、人間の在りようそのものを教えてくれました。一見、大きすぎるテーマで、抽象的に聞こえるかもしれませんが 、立教大学の英米文学専修で何を学んだのかと聞かれれば、私は真っ先にこう答えているのです。

私は3年次からエドガー・アラン・ポーやハーマン・メルヴィルなどのアメリカ文学作品から共同体と個人の関係性を読み解いていくゼミに所属しながら、卒業論文ではトニ・モリスンの作品を取り上げ、黒人文学を研究しました。入学してすぐ、黒人文学に触れた時は、【白人—黒人】といった人種の対立構造ばかりに目がいき、「肌の色で差別を行うのはひどい」という感想を抱くだけでした。しかし、2年間にわたって共同体と個人の関係性を深く考察し、また様々な講義を受け、奴隷制が廃止されて一世紀半たつ現代でも色濃く残る人種差別の要因・本質に少しでも近づけたように思っています。

アメリカでは長らく、人間の都合によって生み出された概念である人種という架空の差異に、普遍的、決定的な価値づけがなされ、人種差別が行われてきました。奴隷制における人種の差異は、「白人である」という白人のアイデンティティを構築させ、それが安心感を与えました。白人と黒人の間に人種の線を引くことで、「白人である自分」を確立しようとしていたのでしょう。集団は絶対的なアイデンティティで結束化するけれど、そこから逸脱したものに対して暴力化する危険性もありますし、自分にとって大事なものが疑似的になって硬直化してしまうこともあります。アイデンティティに囚われると、そこから逸脱した他者ないしは自分を受け入れられなくなり、他者や自分を縛るものとなってしまうのです。

こういった話は、私たちの日常生活にも通ずるところがあります。アイデンティティは端的に言えば、自分らしさです。自分の思い描く自分らしさに囚われ、または周囲から認知されている、求められている自分の役割に囚われてしまうと、そこから逸脱した自分を受け入れられずに苦しんでしまうことがあります。ありのままの自分を受容できる態勢を意識しておくだけでも、この苦しみは軽減されるのではないでしょうか。またそれと同時に、他者との関わり方も意識していきたいところであります。私たちに見えているものはほんの一部でしかありません。「あの人はこういう人だろう、きっとこう思っているだろう」と、相手のことを想像しながら接するのは大切ですが、その像を相手に押し付けてしまうのは、相手を知らぬ間に縛ってしまう要因にもなり得ます。

私はこの春から私立中高一貫校の教諭になりました。塾を含めると、教育現場に携わって4年となります。自分の中で相手を規定したり、投影したりすることのないよう、英米文学専修での学びを心にとめて、目の前の生徒と接するよう常日頃心がけています。大学4年間で、飲食のアルバイトを掛け持ち、サークル、手話活動、大学院入試、就職活動、卒業論文など様々なことに挑戦してきました。しかし何をやっていても、文学から得た学びが軸にありました。この英米文学専修では想像以上の学びを収穫することが出来ました。皆さんもぜひ、全力で学びを吸収していってほしいと思います。そしてその学びが、これからの生きる糧となることを願っています。


 

2019年卒業生


文学部英米文学専修
眞鍋 せいら  (東京大学大学院学際情報学府)
立教大学文学部、そして英米文学専修で何を学んだのかと問われれば、いくらでも答えようはあるでしょう。英語の成り立ちと英語圏の文化、ワーズワスやシェリーといった詩歌、文学理論などなど。私の場合、「卒業論文でヴァージニア・ウルフについて書きました」といかにもそれらしく言えるかもしれません。しかし考えてみると、在学中に学んだのはそれ以上のことだったという気がします。強いていうならば、ことばの持つ力とその限界、ということでしょうか。

文学というのは面白いもので、行ったこともない場所の、会ったこともない人物が出てくるテクストを次々読むことになります。私は立教でアーサー王伝説や漱石の『それから』といったような、いわゆる「不倫」を扱う作品についても多く学びましたが、私自身は今までのところ不倫どころか結婚もしたことがありません。ブロンテ姉妹の住んだヨークシャーの荒野も知りませんでしたし、マクベスのように主君を謀殺した経験もありません(できたらこの先も経験したくはありませんが)。それでも、ヒースクリフからキャサリンへの燃えるような愛の告白や、マクベスの「人生は歩き回る影にすぎない」という嘆きを、ことばを通じて共有している自分を何度も発見しました。それは知らない世界や人生や感情を教えてくれ、時に私を慰めてくれる、すばらしい体験でした。

と同時に、ことばは私たちを規定し、隔てもします。普段私たちが何気なく「英語」や「イギリス人」、「日本人」と呼んでいるものは一体なんなのでしょうか。たとえばこの文章を読んでいるあなたも、普段は「学生」「息子」「娘」「アルバイト」などと呼ばれ、そのように扱われ、振る舞っているかもしれません。そしてそれらは、必ずしもあなたの望む形とは限りませんよね(「いつまでも『子供』扱いするな」、と親に抗議したことのある人も多いでしょう)。そこにはあること/ひとをことばで「名付ける」「呼ぶ」という権力関係が発生します。それにそもそも、人間の複雑な感情、生きていく上での煩悶や激情をことばで表現し尽くし、完全に他者と共有することなど、決して可能ではありません。「彼女たちが望んでいたのは??しかし、彼女たちが意識的にせよ無意識的にせよ、長い間望み、今も望んでいるものを、ことばで表すことなんてできるでしょうか?」とウルフは『三ギニー』で書いています。

それでも文学やことばは、単なる「歩き回る影」ではない、と私は思います。まだ入学したての頃に演習で読んだ、イギリスの詩人、キャロル・アン・ダフィの‘Words, Wide Night’という詩を思い出しました。遠く離れた「この広い夜の反対側にいる」恋人への思いを歌った詩です。いくら恋しいと嘆いても恋人には伝わらないことを、詩人はいくぶん自嘲してみせます。そしてこの詩は、「この思いは、あえていうならそういうこと、ことばにすればそういうことなのです」と結ばれます。けれど、ここで語られているのはことばの無意味さではありません。それでもこの詩人は恋人への愛をことばで歌っていますし、ダフィは詩を書き続けるのです。

ことばには限界があると知りながら、それでもことばにせざるを得ないのは、もうなんだか「業」とでも言わなければならないもののような気がしています。そしてそれは、詩人や小説家や文学者だけが持っているものでもなく、また文学部で学ぶ数年間に限ったものでもありません。この先もことばと関わり、人生をどうにか生きていくにおいて、英米文学専修で学んだことは非常に大きな意味があったと思っています。そしてこの豊かな時間をともに過ごした友人たち、また導き見守ってくださった先生方に、心から感謝しています。
どうぞ皆さんにとっても、英米文学専修での学びが一生のものとなりますように。


 

2018年卒業生


文学部 英米文学専修
黒田 真歩  (経済産業省)
英米文学専修の皆さん、はじめまして!
皆さんは、今どのような大学生活を送っていますでしょうか?学業に専念している方もいれば、サークル活動やアルバイトに専念している方もいることでしょう。あるいは、就職活動中で、説明会やインターンシップに毎日のように参加している方もいるのではないでしょうか。一人ひとり、学生時代の過ごし方は異なるかとは思いますが、私自身の4年間を振り返りながら、大学生活を送る上で大切にしてほしいことをいくつか紹介したいと思います。

一つ目は、「常に好奇心旺盛で」。すでに、多くの方が様々な活動に携わっていることと思いますが、少しでも自分の関心を持てるようなことを見つけたら、初めての事であっても、一歩踏み出してチャレンジしてみてください。私自身、1年生の春学期は何から手をつければよいのか分かりませんでしたが、思い切って国際交流ボランティアに加わり、留学生との交流を楽しんだり、日本語授業のサポートをしたりしました。規模としては小さな事ではありましたが、自分の視野を広げるきっかけになったと感じています。その後も、英語スピーチコンテストに参加してみたり、身体障がいを抱える学生のサポートをしたり、さらには教授のアシスタントをしたり……と、学内で出来る活動は「全てやってみよう!」という気持ちで取り組みました。ですから、好奇心旺盛で色々なことに挑戦してみて、視野を広げてください。

二つ目は、「人との出会いを大切に」。「一期一会」という言葉があるように、人との出会いは、年齢や国籍、性別を問わず、大切にして下さい。私の体験を述べると、外国人教授のSAを担当したことが、将来の進路を決めるきっかけになったと思っています。教授からSAの誘いを受けた時には、自分で務まるものなのかという不安がありましたが、一緒に仕事をしていくうちに、専門の説明をしていただいたり、外国人から見た現代日本社会についてお話を伺ったりすることが出来ました。海外経験が一度もない私にとって、諸外国と日本との違いについて聞けたのは、貴重な機会であり、そうした日本社会をどのように変えていくべきなのか、考える契機になりました。ぜひ、一人ひとりとの出会いを大事にして下さい。

最後に、三つ目として、「文学作品を読み続けてください」。小説でも詩集でも、あるいは戯曲でもいいので、沢山の作品に触れ、沢山の人の声に耳を傾けてみてください。私は、入学した当初、シェイクスピア演劇を勉強したいという思いが強く、他の作品にあまり目を向けていませんでした。しかしながら、3年生の時の演習でアメリカ・ビートジェネレーションを勉強し、独創的で斬新な作品にめぐり逢い、目から鱗が落ちました。その後、4年次にはテネシー・ウィリアムズの戯曲を学び、卒業論文では『ガラスの動物園』を取り上げ、作品が映し出す当時のアメリカ社会について考察してみました。大変ではありましたが、登場人物の声に耳を傾けたり、ウィリアムズが作品に込めたメッセージを読み解いたりしたことは、登場人物一人ひとりと対話しているような感覚で、自分自身とも向き合うきっかけになりました。ぜひ、皆さんも、沢山の本を読んで、この感覚を味わってみてください。

私からのメッセージは以上となりますが、これからの大学生活や将来の進路に不安を抱いている方に、私の大好きな小説、サマセット・モームの『人間の絆』の一節を送りたいと思います。 主人公のフィリップが人生の意味について友人のクロンショーに尋ねた時、彼は「ペルシャ絨毯が答えだ」と言いました。最初は、その言葉の意味を理解出来なかったフィリップでしたが、彼はようやくその意味を理解します。

「人生無意味、したがって何一つとして、言うに値するものはない(中略)。人は、どのような好みの撚糸を選び出して、どのような模様を織り出すとしても、彼としては満足なわけだ。ただ、その中に、最も明白で、最も完全で、最も美しい模様が、一つだけある。即ち、人が生れ、成長し、結婚し、子供をつくり、パンのために働いて、そして死ぬという模様が、それだ。」(中野好夫訳)
それでは、皆さんのご活躍を心から祈っております。


 

2017年卒業生


文学部 英米文学専修
趙 美栄  (株式会社立教企画、2019年現在)
 英米文学専修の皆さん、はじめまして!
 私にとって英米文学専修で学ぶことは、人生において最も大きいチャレンジでした。なぜなら私は英語が得意ではなかったからです。しかし英米文学が好きという想いが、私をこのチャレンジへと後押ししてくれました。本が好き、映画が好き、文章を書くことが好き、舞台を見ることが好き…といういくつもの単純な理由から文学部を選択しましたが、私にとって大学での授業は好奇心を刺激される新しい世界との出会いの場でした。

 文学部に在籍し、文学作品を幅広く、そして深く学んでいくという機会は、人生の中で多くはないと思います(ぜひ沢山の授業を履修してください!)。ここでは、在学生である皆さんと同様に「学ぶ立場」として新たな発見をした経験をお話ししたいと思います。

 私は4年生の時にアメリカ文学のゼミに入り、黒人文学で卒業論文を執筆しました。黒人と聞くと、奴隷制や現代にも根強く残る差別などに着目することが多いのではないかと思います。あるいは、アメリカ文化を好む方は、彼らの高い身体能力や芸術に魅了されていらっしゃるかもしれません。彼らの文化的あゆみを自分の言葉で論じてみたいと思い、私は卒業論文を執筆しました。進路も決まらないまま論文とアルバイトを並行していく中では様々な不安や焦りもありましたが、大学時代の集大成をまとめようと決心したのです。

 卒業論文では、差別される側であった黒人のコミュニティ表象を分析しました。作中の黒人たちの意識を検証すると、人為的に作られ、多くの矛盾を孕む差別構造が、ブラックコミュニティ自体の所産としても描かれていることがわかりました。さらにそれらを探究すると、肌の色の差、性別の差、文化の違いなどによって人間の優劣をつけることの矛盾や限界を、確信することができました。

 私たちがあるグループ内部で得られる連帯感は、生きていくうえで不可欠でありますが、過剰なまでのそれへの固執は、異なる人々の排除へとつながってしまうのではないかと思います。 互いの「違う部分」を受け入れ、理解するのは容易ではありませんが、違いを知ろうとする好奇心や理解しようとする寛容な精神は、本当に大切だと思います。この認識は、我々が社会に出ても必要とされるものではないかと思います。

 私はみずから文献を探し、議論を組み立てることを、卒業論文執筆を通して経験できたことにとても感謝しています。やはり書くのと書かないのではまったく違います。新たな知識獲得のきっかけともなり、やり遂げたことが自信に変わります。自分の考えを客観化することは簡単ではありませんが、指導教授がサポートしてくださるので大丈夫です。安心してください。

 文学部は就職に不利だというお話もありますが、大学での体験は、就職活動に収斂しない多角的な重要性をもっています。この時間を人生におけるひとつの通過点にすぎないという捉え方をする人もいるでしょうが、学ぶことが生活の中核であった日々は、私にとっては本当に貴重でした。

 社会生活を送るうえで、知ること・知ろうとすることはとても重要ですが、知識を受け入れる容量自体を増やしていくためにも、大学での時間を大切にしてください。学ぶことを楽しんでください。広い知見をもった立教生が社会で活躍していくためにも、共に全力で学んでいきましょう。私も新社会人として学び精進していきたいと思っています。悔いなく大学生活を思いっきり楽しんでくださいね。応援しています。


 

2017年卒業生


文学部 英米文学専修
中村 俊貴  (東京都公立学校教職員)
 「教育と文学をどのように結びつけるべきか」-このようなことを最近思います。

 しかし、普通の教育系の大学を出ていたらこれと同じことを疑問に思っていたでしょうか、そのようなことも同時に思うわけです。というのも、私が現在英語科の教員としてなんとか頑張ることができている礎として、やはり英米文学の学びは欠かせないものだと思うからなのです。

 文学というのは、誰でも手にし、楽しむことができるものです。しかしいざ研究する、ということになると、実際に学部に入らないとなかなか気持ちが向かないものです。ましてや、私など学部に入る以前は特にこれといって読んでいたわけでもなく、とりあえず英語科の教員免許目当てで入学した人間でありました。ところが、少人数で行われる演習形式の授業を機に、本を研究して読むことの楽しさに目覚めたわけです。例えば、Hemingwayの "Cat in the Rain" は大変有名な作品ですが、その作品内でのaやtheなど、冠詞の有無にさえ意味があるといった読解の深さに19の青年は感動を覚えたのでした。

 すると、当然の流れとして、英語を勉強しなくてはいけない、という気になります。翻訳だけで満足してなどいられません。わからない単語があれば調べ、難しい文法があればどのように解釈するか、皆で話しあいました。そうして一つの作品を読解していきました。中学、高校の英語の授業に一見似ています。しかし、大学の学びではこういった主体性が渦を巻き、教室内を駆け巡っていました。 それならば、と卒業した今、私ができることを考えました。それは、中学生、高校生にその主体性を芽生えさせることにあると思いました。英語科教員として、彼らに英語の楽しさを知ってもらいたいのです。そしてその考えの根元にはいつも、英米文学の学びがあります。

入学するみなさん、卒業後に、今の自分を作っているこの部分は、間違いなく英米文学専修での4年間にある!と自信を持って言えるようになっているはずです。そして、それをずっと心に持ち、世に役立てていきたいと、卒業後はきっと考えるようになるのではないか、と、そう私自身も期待を持って思っております。


 

2016年卒業生


文学部 英米文学専修
山手 菫  (日本航空株式会社)
 立教大学文学部英米文学専修で過ごした4年間は、私の人生において最も濃密で有意義な時間でした。有り余るほどに時間があると言われる大学生であったからこそ、サークル活動やアルバイト、就職活動など、あらゆるものに挑戦しましたが、その中でも常に自分の学生生活の主軸であり続けたのが、「英米での学び」であった気がします。留学をしたり、辞書とにらみ合いながらひたすら英文を訳したり、英語でディスカッションをしたり、どんなレジュメが読みやすいのか試行錯誤したり、卒業論文を書いたり…。英米での一つ一つの取り組みが、今の自分の強み、そして自信に繋がっているのだと思います。ここでは、その取り組みについて少しお話ししたいと思います。

 まず、大学2年次に参加した海外フィールドスタディーEAPについてです。一カ月間サンフランシスコの語学学校で英語を学ぶというプログラムだったのですが、アメリカにいる間だけでなく、出発前後の二か月間、毎日英文日記の宿題を課されたり、アメリカ文化についてのレポートを書いたりと、英語学習を継続して行う事の重要性を重視する点は、英米文学専修主催のプログラムならではの魅力でした。初めての留学は、本場アメリカでの質の高い授業と素敵なホストファミリー、ルームメイトに恵まれ、とにかく楽しく、毎日が刺激的だったのを覚えています。ここでの学びは、英語を将来的に勉強していく大きなモチベーションに繋がりました。

 続いて、大学3, 4年次に受けた演習と英語表現演習の授業は、1, 2年次に扱っていた短編や詩とは異なり、一冊の長編文学作品を、一学期間という長い時間をかけて丁寧に解釈していく点において、本当の意味での英米文学との出会いの場を与えてくれた貴重な時間でした。私の所属していた演習の授業は、グループ発表ではなく一人一人が各自指定された箇所を読み込み、あらすじから自分の作品に関する解釈まで、すべてをレジュメにまとめて指定時間内に発表していくという授業スタイルでした。広くて静かな教室の中で、自分の意見を限られた時間内に述べ、相手を納得させることは、もちろん大きな緊張を伴うものです。しかしこの取り組みを通して、英語の読解力はもちろん、しっかりと原書からの引用文を用いて、自らの解釈を確立していく論理的な思考力が身についたと思います。これらは就職活動においても大いに役立ちました。そして自分の感情や感覚を大切にして楽しむ読書とは異なり、根拠をもとに自らの解釈を実証していくことで、筆者の意図を考えるという文学の面白さに気づくことができました。

 最後に、私の英米における学びを語るうえで欠かせないのが、4年次に取り組んだ卒業論文の執筆です。私はKate ChopinがThe Awakeningの中に描いた、19世紀の社会において抑圧された女性の反発をテーマに論文を執筆しました。夫の所有物でなく、一人の自立した女性として生きたい。子供たちのことは愛しているけれど、家庭に身を捧げることはしたくない。自立を夢見るも、男性に愛される望みを捨てることはできない…。現代の女性の価値観にも通ずる主人公の葛藤に触れることは、社会人となることを目前に控えた私に大きな影響を与えてくれました。図書館に閉じこもり、パソコンの前で頭を抱えながら英語の文献とむかい合う作業は確かに大変でしたが、一つの文学作品と誠実に向き合い続けることができた約四カ月間は、私の今後の人生における大きな糧となるに違いありません。最後、2万字の論文となって完成した冊子を手にしたときは、この上ない達成感と、指導して下さった教授への感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 好奇心と、積極的に学ぼうとする姿勢、そして、やるとなったら妥協せずにとことんやる気概を持っていれば、英米文学専修には、集中して学ぶことのできる環境が整い、私たちを導いて下さる教授がたくさんいらっしゃいます。文学には多様な解釈が存在するからこそ、どこまでも考える力を養い、その人の感情を豊かにし、人間性を面白く育ててくれるのだと思います。与えられた時間と場所を大いに活用し、実りある大学生活を送ってください。応援しています!


 

2015年卒業生


文学部 英米文学専修
富樫 有貴  (株式会社日立ハイテクノロジーズ)
 英米文学専修で学ぶ立教生の皆さん、こんにちは。

 私が大好きだった学部の教授や緑に溢れたキャンパス、そして足繁く通った図書館を在校生の皆さんが今同じように共有していると思うと、とても嬉しく、会わずとも親近感が湧くばかりです。入学したばかりの一年生や、就職活動を控えた三年生など、状況は様々かと思いますが、学生生活が皆さんにとってかけがえのない時間になることを願うとともに、同じ学部で学んだ卒業生として、いくつかアドバイスをさせていただきたいと思います。

 まず一つは、「学生だけの特権を全力で楽しむこと」です。この特権とは、私の場合、「時間」と表現します。大学生活は人生最後の夏休みとも言われますが、これほど時間に恵まれる機会はこの先なかなかありません。4年間、自分がやりたいと思うことを全力で楽しんでみてください。正課の勉強やアルバイトでもいいですし、クラブ活動や海外旅行、読書などでも構いません。大切なのは、全力で取り組んだ先に見えてくるものです。そこで出会った出来事や仲間はすべて、あなたの貴重な宝物になるはずです。私の場合は、海外とマラソンに興味があったので、留学や一人旅にチャレンジする一方、海外でのフルマラソンも含め全部で約20回大会に参加しました。全力で楽しんだ結果に得たものは、自分自身の「思考」や「自信」、「体力」や「英語力」という宝物になり、現在の私を形づくっています。そして、これらは、時間という学生ゆえの恩恵があったからこそ実現できたことであり、社会人になった今、改めてその尊さを実感しています。

 二つ目のアドバイスは、「学生という枠を飛び出してみること」です。学生であるからといって行動範囲や人間関係を大学だけに限る必要はありません。むしろ、より広い範囲に視野を向け、活動することを意識していただきたいです。なぜなら、それは皆さんが将来を見据えるきっかけにつながるかもしれないからです。日本では、一度社会に出ると、「社会人」という名と責任を背負い、柔軟にキャリアを選択していくことが難しくなってきます。そんな社会に、皆さんは数年後カラダ一つで飛び込んでいくことを想像できるでしょうか。将来やりたいことが見つからないのは皆同じかもしれませんが、何かを見て、触れたときに、それに対して自分はどう考えるのかという意見を持つことはとても大切なことです。私はまさに、学生という枠を飛び出したことでそのような力を身につけることができました。大学を一年間休学し、外資系メーカーで半年間のインターンシップに挑戦したときのことです。一度社会に出て働いたことは、等身大の自分が社会や自分の将来と向き合う大きなきっかけとなりました。この経験は、間違いなくその後の就職活動にも役立ちましたし、将来の自分への決意を与えてくれたと思います。

 このように、以上の二つが、卒業生として私が皆さんにお伝えしたいことです。大学生活の過ごし方に正解はありません。そして、このような恵まれた機会は人生で一度きりしかありません。いつか振り返ったときに、充実した4年間だったと思えるような学生生活になることを心より願っております。


 

2014年卒業生


文学部 英米文学専修
石井 将太  (日本電気株式会社)
 都会の喧噪から少し離れた静かな場所にひっそりとキャンパスを構えている立教大学。人よりも一年多く通ったこともあり、特別な愛着を感じずにはいられません。

 私は大学生活の五年間で体育会での活動、一年間のアメリカ留学、ITベンチャーでの長期有給インターン、Dorseyゼミでのミュージカルの研究などありとあらゆるものに挑戦してきました。立教大学の建学の精神である「単に既知の知識を修得するのではなく、無限の未知なる世界に足を踏み入れていくこと」を自ら体現できた大学生活だったと改めて感じています。

 さて、私は海外での経験を通じて、大学においての勉強の必要性と大学外においての主体的な活動の重要性を学びました。よく「大学は勉強をする場だ。学生は勉強しろ」だとか「大学生活では勉強しないで大いに遊べ」などの意見を聞きます。ずるいようですが私は両方するべきだと思います。何をするにおいても自由な「学生」という権利を最大限に活用して、「自分だけの大学生活」というものを作り上げて欲しいと思います。

 せっかくの機会なので私の立教大学での学びの部分についてお伝えしたいと思います。私は最後の二年間、Dorseyゼミでミュージカルを専攻しました。それまでの人生においてミュージカルなど一度も見たことが無かった私がこのゼミを選んだ理由は、英語力をキープするため、ただそれだけでした。しかしながら、私はこのゼミで当初の想定以上のものを得ることが出来ました。第一に作品研究における心理学という切り口があること。第二に芸術などの分野に通暁していることで文学の面白みが増すこと。そして、第三にこれまで関心の無かったものにあえて飛び込んでみることの重要性などがありました。これから立教大学の英米文学専修で学ぶ人、今既に学んでいる人は、様々なものを自分に興味が無いからと選択肢から捨ててしまうのではなく、是非、一度触れてから判断する癖をつけてほしいと思います。自分の知らない世界がそこには広がっているかもしれません。

 最後に私からメッセージを送りたいと思います。「大学生活を通じて新たな出会いを多く作ってください。」この新たな出会いというのは、人だけではなく、本や場所でも構いません。大学生活はドラマなどで見るほど輝かしいものではなく、時には退屈なものかもしれません。しかし、それを変えてくれるのは多くの出会いであり、最後には自分の行動です。いつか読んだ本に、「自分の孫に『おじいちゃんの大学生活どうだった?』と質問されて、ストーリーとして語り聞かせられるような大学生活を送れることが理想だ」というフレーズがありました。みなさんも誰かに聞かれたとき、笑顔で「楽しかった」と答えられるように大学生活を全力で楽しんでください。


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