卒業生からのメッセージ(2020年~)文学科英米文学専修

立教大学の英米文学専修(旧英米文学科)は、英学の場として建学された立教学校とともに歩み、140年の歴史を誇るとも言ってよい本学最古の伝統のもと、有為の人材を数多く社会に送り出してきました。映画監督の青山真治さん(1989年卒)や熊坂出さん(1998年卒、2008年ベルリン国際映画祭最優秀新人作品賞受賞)、日本テレビ・アナウンサー豊田順子さん(1990年卒)、フリーアナウンサーの町亞聖さん(1995年卒)など、みなさん、卒業生です。芸能・マスコミ関連のみならず、金融・保険、流通・運輸、IT、観光、官公庁、教育などを中心に、幅広い分野で卒業生が活躍しています。加えて、大学院へ進学したのち、研究者として大学で教鞭をとっている卒業生が多いのも特徴です。

近年の主要就職先
みずほフィナンシャルグループ、りそなホールディングス、三菱UFJ信託銀行、東京海上日動火災保険会社、住友商事、大和証券、集英社、株式会社NTTデータ、株式会社リーガルコーポレーション、チャイコフスキー記念東京バレエ団、経済産業省、そして関東近県の中学・高等学校など。

以下、2020年~の卒業生からのメッセージをご紹介します。

2025年卒業生

文学部 英米文学専修
田中 穏歩  (本学大学院文学研究科)
私は現在、立教大学文学研究科英米文学専攻で学んでいます。そのため、文学部の英米文専修を卒業したとはいえ、まだまだ学びの真っ只中であり、英米文学を語れるほどの者ではありません。また、大学院への進学も、一年前の自分が聞いたら驚くくらいに予想もしていない未来でした。しかし、それでも進学を選んだのはシンプルに「英米文学が好き」だからです。とはいえ、英米文学科で学ぶまでは英米文学に触れたことがなく、読んだことがあるのは学校の課題で配られたペーパーバックくらいでした。つまり、英米文学を知らずに英米文学専修に入学したと言っても過言ではありません。そんな私が「英米文学が好き」といえるようになったということは、学びとは漠然とした興味から始まるといえるのかもしれません。そこで、役に立つのかは分からないですが、私が英米文学を好きになった経緯をお話ししようかと思います。今漠然と「英米」の二文字くらいが頭に浮かんでいる方々の背中を少し押せたら幸いです。

私は高校時代、とにかく英語が好きで、「英語」と名の付く授業はいつも心躍る気持ちで取り組んでいました。そして徐々に「英語文法」の虜になり、文構造が分かるようになると、今度は英文を読むのが楽しくなり、学校で配られるプリントや教科書の英文をすらすら読めるようになりました。ですが、この頃の私は文構造を解き明かしながら流れるように英文を読むのが楽しくもあり、誇らしくもあり、格好良いと思っていたため英文の内容を深く考察したことはありませんでした。進学の際に英米文学専修を選んだのは、英語を学べる大学の中で特に英文に触れられそうな専修だったからという理由です。つまり、ひたすら英文を読み続けていた結果、英米文学専修にたどり着きました。

大学に入学してからも、初めのうちはついつい「英文構造」に目が行ってしまい、あまり深く作品を考察できていませんでした。普段から小説を読むのは好きであり、それが英語で読めるとなれば私にとっては楽しくて仕方がないはずなのに、熱中できない自分がいたのです。しかし、様々なテーマや視点から展開される英米文学の授業を履修するにつれ、ただ目の前に書かれている英文にうなずくのではなく、「実は○○なのではないか。」と自身で問いを持ちながら作品と向き合えるようになりました。また、登場人物、置かれている環境、歴史的背景、作者の意図など光の当て方によって全く異なる顔を見せる英米文学は私に「よく考えること」の大切さも教えてくれたと思います。

「よく考えること」は結構大変です。なぜなら、文学が私たちに提示する問いはそう簡単に答えが出せるものではなく、というよりも正解はないけれど、可能性の一つかもしれないものを見つけるために真摯に作品と向き合い続ける作業だからです。うまく表現できないのですが、英文の書かれ方から、鍵となる単語、登場人物の描写に滲み出ている作者の葛藤を曖昧なまま受け取る作業だといえるでしょうか。そして曖昧さを受け取ったあとで、作品が投げかける問いに自分の言葉で、可能性の一つとして答えていく。しかし、あらゆる解釈の可能性を提示してくれるとはいえ、自分の好き勝手に作品を読んで自分の考えに結びつけていいわけではなく、だからこそ「よく考える」作業が重要だと思っています。

私は卒業論文で、Nathaniel HawthorneのThe Scarlet Letterという作品におけるDimmesdale牧師の説教に注目し、その声が実は人々に届いていないという矛盾を明らかにするなかで、言葉やコミュニケーションの複雑性を論じました。これらは英米文学を学ぶ姿勢だけでなく、普段から言葉を使う時に自分の言葉が相手を押さえつけていないか、相手の言葉に耳を傾けられているかを改めて考えるきっかけにもなりました。この論文を作成するときでさえも、言葉の暴力性に気を遣いながら書くことに苦労しましたが、今ではそうやってよく考えた論文が心の支えになっています。そして、自分だけでは卒業論文を書き上げることはできなかったので、ご指導いただいた先生に感謝です。卒論を書くつもりがなかった私でもなんとか書き切ることができたので、迷っている人がいたら頑張ってみてください。心強い先生方のサポートもついています。

いろいろと書きましたが、私にとって英米文学専修での学びが彩り豊かな景色を見せてくれたことに間違いはありません。英米文学を学べているのはもちろん楽しいからです。最近は、授業についていくのに必死になっていますが、楽しむ気持ちを忘れずに真摯に作品と向き合い、研究に励んでいくつもりです。皆さん、大学生活を楽しみながら共に頑張っていきましょう! 読んでいただき、ありがとうございました。

2024年卒業生

文学部 英米文学専修
千葉 幸実  (資生堂ジャパン株式会社)
英米文学専修での学生生活は世界に目を向けさせ、自分の可能性を拓いてくれました。そして何よりもとびきり楽しいものでした。

英米文学専修と聞くと、英語を学ぶという漠然なイメージをもっていましたが、4年間で学ぶ内容は多岐にわたりました。1年次に受講した英米文学概論は、英、米どちらについても学べるほか、小説や詩、演劇など多様な作品についても触れることができました。私は、英米文学概論を受講する中で、アメリカ文化・文学に興味をもち、2年次からはアメリカに軸をおきながら授業を履修していました。

また、英米文学専修には全学部共通の英語科目に加え、独自の英語の演習授業もありました。英語の演習授業では、英語で英語を学ぶことになります。ここでは、英語学習がゴールではなく、英語はあくまで文学を学ぶための手段となっていたのです。全学部共通の英語科目で高めた英語力を手段として用い、英米文学について学ぶという実践的な学びができるのは英米文学専修の魅力だと思います。

私は、英米文学専修で学んでいく中でアメリカの文化を肌で感じたい、生きた英語を現地でより身につけたいと思うようになり、3年次から英米文学専修独自のプログラムである、ハワイ大学ヒロ校へ1年間留学しました。ヒロ校での留学は多様な文化や価値観に触れることのできた貴重な機会となりました。

授業では、ハワイの文化を学ぶことができるものを中心に履修を組みました。特に印象に残っているのが、ウクレレの授業です。授業では、ウクレレの弾き方を習うだけではなく、作者の生涯や曲が描かれた背景、そして歌詞の意味などについてのディスカッションを行いました。ハワイは華やかで楽園的なイメージがありましたが、授業で扱った曲の中には、現代化が進むハワイに対して疑問を投げかける曲もあり、現地で学んだからこそわかるハワイの違う一面についても知ることができました。

日々の生活では、多様なルーツをもつ友人たちに囲まれるなかで、英語を学習する重要性を再認識しました。ハワイ大学は全米で最も多様性に優れた大学と言われており、私もそれを度々感じることがありました。当初は仲良くしていた友人たちを「アメリカ人」「ハワイ人」という大きなくくりで認識していましたが、彼らの出身について聞いてみると、アジアやヨーロッパなど様々な地にルーツをもっており、ハワイは一言では言い表すことができない多様な文化や背景をもった人たちが共存している場であることがわかりました。そんな私たちをつないでいたものは紛れもなく英語でした。英語は世界中の人と人をつなぐ言語であり、英語には大きな力があることを改めて実感しました。

10ヶ月の留学を終え帰国後すぐに、就職活動を行いました。留学中に海外の友人たちから日本のことを褒めてもらえると自分事のように嬉しかった経験から、将来は日本の魅力を世界に発信したいと考え、グローバルにビジネスを展開している日系企業を志望していました。その中で、外見も内面も美しくすることができる化粧品という商材に惹かれたこと、海外展開に力を入れている企業であったことから、現在の会社に就職することを決めました。

4月からは化粧品会社の営業職として社会人生活をスタートさせています。営業職というと実際にモノを売る職種と想像される方もいると思います。しかし、私の営業としての役割は、お得意先のニーズや課題をくみ取り、自社ブランドを用いながら解決することで、ブランドと生活者の接点をつくりだすことです。よく仕事には正解がないと言いますが、これは文学とも共通していることのように思います。文学にも人の数だけ読み方があるように、仕事も人それぞれやり方があるはずです。

英米文学専修での日々の学びやハワイ大学への留学で、私は「多角的な視点」や「実行力」を大いに培うことができました。今後は化粧品会社で働きながら、世界中の人たちに自分らしい「美」を提供し、幸福感と自信を与えられるような、そんな仕事をしたいと思っています。

皆さんも立教大学で多くを学び、自分なりの「美」を追求して欲しいと願っています。皆さんの学びが充実したものとなるよう心から応援しています。


2023年卒業生

文学部英米文学専修
小笠原 菜津子  (本学大学院文学研究科)
私は、大学卒業後、立教大学文学研究科英米文学専攻に進学し、アメリカ文学を研究する道を選びました。現在は、授業で扱われるテクストと日々向き合いながら、新たな問題意識を持って精読を進めたり、個人の研究をどのような切り口で進めていくのか、来年度の修士論文執筆に向けてあらゆる可能性を模索したりしています。数年前の私は、まさか自分が大学院生になるとは思ってもいませんでした。なぜ、大学院で研究する道を選択したのか。それは、英米文学専修における4年間の学びが充実したものであり、より本格的に研究をしてみたいという思いが強くなったからです。この文章を読んでくださっている方々には、自身の将来に悩み、何かヒントが得られないかとこのページに来てくださった方もいるのではないかと思います。私自身も、学部生のときに進路で迷い、このページを訪れたひとりでもあります。英米文学専修で学んだことがどのようなもので、それが今の自分にとってどのような意味を持つのか、これから綴らせていただく内容が少しでもお役に立てたら幸いです。

大学入学以前、私は、英米文学のテクストを楽しく読んだことがありませんでした。高校時代、定期テストごとに英語の本が配られ、その内容がテストで問われる「ホームリーダー」という試練があり、義務的に英語の本を読んでいました。自主的に読み進めなければならないため、忙しい高校生活を送る当時の私には内容を楽しむ余裕などなく、テストが近づけば近づくほど苦痛になるものでした。しかし、元々、空港のアナウンスから聞こえてくる英語が好きで「いつか英語を流暢に話せるようになりたい」という思いから、「英語を学ぶ」ことができる大学に進学したいと思っていました。

よく考えてみると、「英語を学ぶ」ということばはとても曖昧なことばかもしれません。「英語を学ぶ」とは、具体的にどのようなことを指すのでしょうか。高校時代の私にとって、「文法や単語をたくさん覚える」ことや「覚えた文法や単語を使って会話したり作文したりする」ことが「英語を学ぶ」ことでした。確かに、文法や単語を最低限習得しなければ、流暢に話すことはできないし、学んだ文法や単語も実践的に使わなければ、自分のものにならないのもまた確かです。高校生の私が抱いていた「英語を学ぶ」ことに対する考え方は間違ってはいないと思います。しかし、英米文学専修の卒業生として強調したいのは、「英語を学ぶ」とは単にコミュニケーション手段として言語を習得するだけに留まらないということです。英米文学専修で「英語を学ぶ」ということは、英語によって紡がれたテクストをそれぞれの問題意識に沿って読み解き、その背景にある歴史的・社会的事情、作者の思い等を探り、同時に現代社会や私たちの人生そのものと向き合うことであると思います。

私は、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』を「家族」というテーマで卒業論文を執筆しました。社会的階級、エスニシティ、宗教、ジェンダーなどの視点から、家族の在り様やキャラクターの描写、人間関係等について考察し、家族の描写を南北戦争前後のアメリカが抱えていた社会問題と結びつけながら考えをまとめました。同時に、卒業論文を執筆するなかで、社会的規範に抗いながら自分の人生を切り拓いていこうとする主人公ジョーの生き方を目の当たりにし、果たして、女性を含めたあらゆるマイノリティの立場にある人々にとって現代は生きやすい世の中になっているのだろうか、そもそも人間が「幸せ」に生きるとはどういうことなのだろうか、という新しい問題意識が芽生えました。英語の原文と参考文献を丹念に読み込み、なかなかまとまらない考えを結び付けていく作業は、とても大変なもので精神が削られていくような気持ちでしたが、指導教授のご指導のもと、4年間の学びをひとつの形としてまとめられたことは今後の自信になりました。卒業論文を執筆するか否かで迷われている方には、断然執筆をおすすめします。

少し話は逸れてしまいましたが、改めて「英語を学ぶ」ことについて考えてみると、英語のテクストに対する向き合い方を学べる場所が立教の英米文学専修であると思います。私は、この4年間で、書かれた内容を鵜呑みにせず常に疑うことの重要性を学びました。情報を鵜呑みにしないという姿勢は、テクストと向き合う際にどのような問題意識を持つことができるかに直結します。そして、この心構えは、文学のテクストだけでなくこの世の中に溢れる情報と向き合う際にも重要な意味を持ちます。英米文学専修で身に付ける情報への向き合い方は、真偽の不確かな情報に溢れる現代社会においてこそ必要とされる生きる術であるといえます。だからこそ、私は英米文学専修で学んだことを誇りに思い、4年間の学びを礎としながら真摯に研究に打ち込み、社会の荒波の中で強く生きていきたいと思っています。


2022年卒業生

文学部英米文学専修
萩原 綾香  (株式会社CURIOUS PRODUCTIONS)
英米文学専修で学ばれている皆さん、そして立教英米を目指している高校生の皆さん、「学ぶ/学び」とは一体どういうことか、と聞かれたとして、皆さんは何と答えるでしょうか。大学に入れば四年も向き合うものなのに、これは意外と難しい問いかけです。とりわけその「意義」というものを明確に答えることは、我々、文学を相手にする人間にとって、簡単なことではありません。

時間を少し飛ばして、私の話をさきにすることにしましょう。この四月から、私は晴れて映像制作会社の一員として働くことになりました。ざっくりと説明すると、動画やテレビ番組のような映像コンテンツを、企画したり、演出したりする職業です。これだけでは何のことやら、という感じかもしれませんが、私は子ども向けの教育番組が大好きで、「いつかその制作に携わりたい」とずっと考えてきました。今はつまり、大学に入った頃からのその目標を、半分ぐらいは叶えた、ということになります。

しかし、すでにお気づきの人もいるように、私が大学で専攻していた内容は、今の職業とほとんど関わりがあるものではありません。おそらく映像学科や専門学校で専門的にその道の知識・技術を身に付けた人の方が、よほどしっかりした即戦力になることでしょう。ところが私はこの英米文学専修で学び卒業したことを、これっぽちも後悔したことはありません。それどころか、誇ってさえいるのです。それは何故でしょうか?

私たち人間が、言語でもって思考する生きものである以上、文学、つまり活字というものは人の思想、意図、感情といったものの表出、それそのものです。私たちが英米文学専修で身に付けるのは、それらを丁寧に紐解くための方法論であり、その結果としての知識の集積であるとも言えるでしょう。これは例えば、映像コンテンツを企画するとき、あるいは演出するときに、とても役に立つ技能です。動画もテレビ番組も、言ってしまえば、それに携わる人間たちの「こんなものを見せたい」「こんなふうに伝えたい」という多様な意図と、思想の上に成り立っているものですから。つまるところ、社会に出たとき私たちが向き合うことになるものというのは、思想、意図、感情、それをもつ他者……すなわち、「文学」と同じものであったようなのです。

文学なんてやったところで実際に役立つことはない、と言う人がいますが、それは大いなる誤解です。文学ほど、人生において実践的な知識は他にないでしょう。

言い換えれば、「学ぶ/学び」というのはつまり、生きていくための武器を磨く、ということでもあります。といっても、そう気負うことはありません。例えば、『On the Road』という作品があります。私が卒業論文の題目として扱った、アメリカの文学作品です。作者ケルアックの半自叙伝的な筆致による、ロードムービーのような、まさに人生の一部を切り取ったような大作ですが……はじめて本作を読んだときは、驚愕しました。時代性や修辞法といった評価はともかく、こんなにも、進歩も生産性もない物語があるなんて、と。それは読解の甘さから来る、いわゆる読み違え、というものだったのですが、「学ぶ」ことも実はこれとよく似ています。ケルアックの語りには、一目ではそれと気づけないほど繊細に、彼自身の孤独と生への希望が織り込まれていました。同様に、物事にどんな意味や価値、すなわち「学び」があるかは、すぐにはわからないことも多いのです。

もちろんこの回答は、この世界に数多ある論文と同じように、私という一個人の一解釈にすぎないものです。この文章に書いてあることすべてを、皆さんが真摯に受け止める必要はありません。それでもこの問いかけが、あるいはこのメッセージが、皆さんの今後の英米文学専修での「学び」をより実りあるものにする、何らかのきっかけとなれば幸いです。


2022年卒業生

文学部英米文学専修
笠原 茉実  (旭化成アミダス)
華やかで前向きなメッセージが並ぶこの場所で、私が書ける話はあるだろうかとしばらく悩みました。そうして達した結論は、飾らずに正直なところを述べるのが一番だろうということです。私には、今までの人生で「これを頑張った」と胸を張って言えるものがとりたててありません。そんなどこにでもいそうな卒業生として、私と同じように自分のことを「どこにでもいそうな」人間だと思っていらっしゃる方が少しでも気楽に学生生活を送るための役に立てればと思って書きましたので、よろしければ読んでみてください。

私は習い事も高校での部活動も中途半端に辞め、大学ではサークルに所属することもせず、学業の成績は特段良くもなく、親や先生に叱られるほどには悪くもなく、ただ平坦な日々を送ってきました。少しだけ器用な私は、「何となく」で多くのことを乗り越えていました。それでもそれなりには楽しいし、この先もどうにかなるだろうと迂闊に構えていた矢先、就職活動が始まりました。「何を頑張ってきましたか」「何ができますか」と問われる日々の中、私には何もない、と怖くなりました。書類審査で落とされ、面接で落とされ、私は必要とされていない、価値のない人間だと感じるようになりました。そうした失意と自棄のなか、私を救ってくれたものが、アメリカのアニメ『スポンジ・ボブ』でした。

スポンジ・ボブの世界では、「役に立つ」ことより「楽しい」ことが正義であり、ボブたちは「なぜ生きるのか」を問わず、ナンセンスをひたすらに生きています。それは私の偏狭な価値観を引っくり返すものでした。また、ふとしたきっかけで読んだ、吉野弘さんの「I was born」という詩に涙が溢れたこともあります。この詩のもつ不思議な哀しさとあたたかさに、救われたと思いました。「なぜ生きる、何のために生きている」という問いに悩むより、「I was born」——とにかく自分はこの世に生まれたんだ——という生き方をしていいのだと、みずからの存在を認められた気がしました。「なぜ」という問いに対して、「生まれたから」以上の答えを無理に見つけようとしなくてもいいやという、いい意味での「諦め」がついたのかもしれません。

英米文学を専攻するなかでは、「老い」やジェンダーなど、私の当たり前を大きく変えるテーマについての学びが沢山ありました。「アンチエイジング」という言葉の根底には、「老い」への否定的な捉え方がないだろうか。女性の能力を評価するのに使われる「男勝り」という言葉は、女性が劣っていることを前提にしたものではないだろうか。人はしばしば珍しいものを身にまといそれを「個性」と呼んでいるけれど、果たして純粋な「個性」は存在するのだろうか。大学へ入り、それまでは思いつきもしなかったことを考える機会が増えました。

冒頭で私は、今まで何もしてこなかった、私には何もない、と言ってしまいましたが、本当は「何もない」などということはあり得ないのだと思います。何もしてこなかったと無力感を抱くことはあっても、「何も得られなかった」わけではありません。さまざまな文学作品に触れ、考える機会を得て、知らなかった世界を知ることができただけでも、私はこの大学に入ってよかったと思っています。また、辛い時に読みたい本があること、観たい映画があること、聴きたい音楽があること、アニメでも漫画でも、自分の側に作品があるのはすごく幸せなことです。

私は4月からIT系の企業で働き始めました。文学部なのに文学と関係ないじゃないか、と言われれば、まあそんな気もします。それでも、働くうえで読解力を求められる機会は勿論ありますし、「考える」という行為そのものが、何処へ行っても活きる「武器」になると信じています。働くのが楽しいだとか、大変だとか、やりがいが、などとそれらしいことを語るには経験が浅すぎるかなぁと思いますが、「何処で働くか」だけに目を向けるのではなく、「今いる場所で何をするか」をより大切にしてほしいです。どうしようもなく不安な時には、「入ってみないと分からないことは入ってから考える」くらいの楽観的な見方をするのもアリだと思います。幸い、入社後に出会った同期や先輩方は親切で面白い方ばかりです。

最後に、いま取り組んでいる、またはやろうとしていることが、時間の無駄だと感じたり、他人から「何の役に立つのか」と問われたりするかもしれません。しかし、知識や経験はどこかで互いと繋がりあい、私たちの世界を広げてくれるはずです。私から何かアドバイスをするならば、あまり「無駄」を嫌わずに(そもそも無駄は悪じゃないと思います!)好きなことを追求してほしい、ということでしょうか。皆さんが自分のペースで楽しい大学生活を送られることを、心から願っています。


2021年卒業生

文学部英米文学専修
宇都 瑞希  (横須賀学院 英語科専任教諭)
英米文学専修での4年間の学びは他者との関わり方、人間の在りようそのものを教えてくれました。一見、大きすぎるテーマで、抽象的に聞こえるかもしれませんが 、立教大学の英米文学専修で何を学んだのかと聞かれれば、私は真っ先にこう答えているのです。

私は3年次からエドガー・アラン・ポーやハーマン・メルヴィルなどのアメリカ文学作品から共同体と個人の関係性を読み解いていくゼミに所属しながら、卒業論文ではトニ・モリスンの作品を取り上げ、黒人文学を研究しました。入学してすぐ、黒人文学に触れた時は、【白人—黒人】といった人種の対立構造ばかりに目がいき、「肌の色で差別を行うのはひどい」という感想を抱くだけでした。しかし、2年間にわたって共同体と個人の関係性を深く考察し、また様々な講義を受け、奴隷制が廃止されて一世紀半たつ現代でも色濃く残る人種差別の要因・本質に少しでも近づけたように思っています。

アメリカでは長らく、人間の都合によって生み出された概念である人種という架空の差異に、普遍的、決定的な価値づけがなされ、人種差別が行われてきました。奴隷制における人種の差異は、「白人である」という白人のアイデンティティを構築させ、それが安心感を与えました。白人と黒人の間に人種の線を引くことで、「白人である自分」を確立しようとしていたのでしょう。集団は絶対的なアイデンティティで結束化するけれど、そこから逸脱したものに対して暴力化する危険性もありますし、自分にとって大事なものが疑似的になって硬直化してしまうこともあります。アイデンティティに囚われると、そこから逸脱した他者ないしは自分を受け入れられなくなり、他者や自分を縛るものとなってしまうのです。

こういった話は、私たちの日常生活にも通ずるところがあります。アイデンティティは端的に言えば、自分らしさです。自分の思い描く自分らしさに囚われ、または周囲から認知されている、求められている自分の役割に囚われてしまうと、そこから逸脱した自分を受け入れられずに苦しんでしまうことがあります。ありのままの自分を受容できる態勢を意識しておくだけでも、この苦しみは軽減されるのではないでしょうか。またそれと同時に、他者との関わり方も意識していきたいところであります。私たちに見えているものはほんの一部でしかありません。「あの人はこういう人だろう、きっとこう思っているだろう」と、相手のことを想像しながら接するのは大切ですが、その像を相手に押し付けてしまうのは、相手を知らぬ間に縛ってしまう要因にもなり得ます。

私はこの春から私立中高一貫校の教諭になりました。塾を含めると、教育現場に携わって4年となります。自分の中で相手を規定したり、投影したりすることのないよう、英米文学専修での学びを心にとめて、目の前の生徒と接するよう常日頃心がけています。大学4年間で、飲食のアルバイトを掛け持ち、サークル、手話活動、大学院入試、就職活動、卒業論文など様々なことに挑戦してきました。しかし何をやっていても、文学から得た学びが軸にありました。この英米文学専修では想像以上の学びを収穫することが出来ました。皆さんもぜひ、全力で学びを吸収していってほしいと思います。そしてその学びが、これからの生きる糧となることを願っています。


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