英米文学専修教員による《読書の薦め》文学科英米文学専修
英米文学専修の教員から、それぞれのお薦め本を紹介してもらいました。英米文学に限らず、幅広いジャンルの本が取り上げられています。
教員
サミュエル・テイラー・コールリッジ詩集
それほど多くない作品のうち特に『老水夫の歌』The Rime of the Ancient Marinerをぜひ。大西洋を南下し、アメリカ大陸の南を周回、太平洋を経てヨーロッパに戻るという航路を行く目的不明の船に乗り込んだ水夫が、船員たちを慕って訪れた阿呆鳥を何の理由もなく射殺してしまう。すると船には次々と災厄が襲い掛かって、理不尽にも罪のない同僚たちが次々斃れ犯人の水夫ただ一人が生き残って故郷へ帰り、自分の恐怖の体験を語り継ぐ。不条理にして孤独な人間存在を抉り出す根源的な物語を英詩のあらゆる技法を駆使して音楽のように歌い上げた傑作。齋藤勇訳(岩波)、高山宏訳(国書刊行会)、上島建吉訳(岩波)など多くの翻訳があるが、素晴らしいリチャード・バートンの朗読を聞きながらやはり英語でじっくり読みたい。ドレほかの画家がつけた挿絵も参照。
シャーロック・ホームズ物探偵小説
アーサー・コナン・ドイルが生み出した御存知探偵と医者のワトソン君のでこぼこ名コンビ。全く何の想像も働かない一般人代表の引き立て役を出しに使って、あざといまでに華麗な推理を展開する麻薬中毒の不良探偵ホームズ。時にワトソンの鈍感さは漫才に匹敵するほどのおかしみを醸し出す。文学史上稀なほど鮮やかな二人の対話と奇抜な事件の顛末を味わうには英語原文のリズムで。個人的には、そのワトソンが重要な女性登場人物と恋に落ちて悩み苦しみつつそれを成就させるという微笑ましい脇筋の付いたインド物『四つの署名』The Sign of Fourや名高い『バスカヴィル家の犬』The Hound of the Baskervillesなど油が乗っていた時期の中長編がお勧めだが、短篇を集めた事件簿は気軽に読める。映画化、テレビ化もされているので、見比べれば二度楽しい。
小林信彦『面白い小説を見つけるために』(光文社知恵の森文庫)
読書案内ページで読書案内の本を推薦するのも孫引きのような感じで気が引けるが、これほど力の籠もった案内も珍しい。読書体験に基づいて書物を語りながら個別論に終始せず、小説論の古典を引用して常に普遍的な立場との相対化を図ろうとする批評的態度が見事で、小説論の古典の域に達しうる素晴らしい文学入門書。早稲田英文科出身だが、洋の東西、高尚通俗を問わず興味の範囲は縦横無尽で、特に力の入れ方がただならぬバルザック、谷崎潤一郎の二人の紹介は読み始めるとやめられない。著者は、若くして、雑誌編集者、テレビ構成作家として出発し、いまだに小説、文学・映画評論、喜劇役者論、雑誌コラムの第一線に立つ稀有の現代作家。小説家としての一面に触れたければ、『袋小路の休日』(講談社文芸文庫)をぜひとも。最近作に『うらなり』、『日本橋バビロン』。
柴田元幸『アメリカ文学のレッスン』(講談社現代新書)
古典作品から現代作品までを幅広くカバーし、アメリカ文学の面白さを凝縮して、かつわかりやすく伝えてくれる贅沢な本。「アメリカ文学など一冊も読んだことがない」という人も心配無用。これはまさにそういった一般読者のために書かれている。この本に導かれて興味を持った作品があれば、翻訳で実際に作品を読んでほしい。
ハーマン・メルヴィル『白鯨』(岩波文庫、講談社文芸文庫など翻訳は複数あり)
世界をまるごと言葉で表現しつくそうとした、アメリカ文学の傑作。巨大な鯨に足をもがれた船長が、その鯨に復讐を果たそうとする。話の筋は驚くほど単純なのだが、作品の細部にこの小説の真髄が潜む。私は、学部生の時に無謀にも原書でこの作品に挑戦し、まったくと言っていいほど理解できなかった。ただ、わからないなりにも「すごい」と圧倒された。とにかくこの本を理解したいという欲求に駆られてアメリカ文学研究の道に進んだが、いまだにわからないことだらけである。そうした深みがこの作品にはある。最初から最後まで読み切ろうとすると挫折するだろうから、初読者にはまず翻訳でつまみ食いするように読むことを薦める。
ジャック・デリダ『散種』(法政大学出版局)
この本に収められている「プラトンのパルマケイアー」という論文を特に薦める。文学研究をする上で「どう読むか」という方法論は人それぞれだが、私の場合は、フランス哲学者の手によるこの論文に多大な影響を受けた。デリダは、プラトンのテクストに現れる「パルマコン」という言葉ひとつに注意を向けることで議論を始める。この単語に潜む「薬」と「毒」という二つの矛盾した意味をあぶり出し、最終的には西洋哲学における「書くこと」という大きなテーマへ接続する議論の展開は、スリリングそのもの。哲学書ではあるが、テクストを精読することについて多くを教えてくれる。
松谷みよ子『現代の民話』(河出文庫)
東日本大震災の後、被災者たちから、いわゆる幽霊体験談が続出しました。あんまり沢山の命が、あんまりあっという間に私たちから奪われると、世界に裂け目が出来て、普段は潜められている〈不条理〉が剥き出しになってしまいます。これはとても恐ろしいことなので、〈不条理な死〉に何とか意味を見出そうとする営み無しには、残された私たちはとてもやって行けないでしょう。これが幽霊話の、民話の、さらに言えば文学の始まりではないかと思います。童話作家として知られる松谷みよ子は、長らく現代民話の採訪にも携わっており、その採集の成果である本書の冒頭でも、「耳を澄ませば、聴きたいと願う心があれば、現代の民話はどこにでもある。もしあなたが沖縄を訪れることがあれば、ひめゆりの塔で月の美しい夜、髪をとかしながら歌っている娘たちの話に出合うかもしれない」と述べています。私たちも、死者の声を聴きたいと願う心を忘れないようにしたいものです。
折口信夫『死者の書』(中公文庫・岩波文庫)
日常生活の雑音の中から、死者の声を拾うのはなかなか難儀という向きは、民俗学者にして歌人が綴る死者の声に目を通しては如何でしょうか。謀反の疑いをかけられて自害した大津皇子が墓の中で目覚め、自分はどうなってしまったのかと自問自答する、「彼の人の眠りは、徐かに覚めて行つた」という冒頭部分から、緊張感あふれる端正な日本語で一気に読ませます。
Richard Brinsley Sheridan, The Critic(1779)
死者の文学が続いたので、最後に毛色の違う喜劇をひとつ。『悪口学校』で有名なシェリダンが放つ、圧倒的にくだらない笑劇(褒め言葉です)。パフ(=誇大広告の意)という、名前からして無責任な男の作・演出による悲劇のリハーサルを劇中で見せるという、メタドラマ的な構造の面白みもさることながら、口八丁手八丁のパフから飛び出す奔流のような台詞と、トラブル続きのリハーサルを無理やり最後まで持って行く辣腕ぶりは圧倒的で、「芝居が人を巻き込む力って、すごいもんだなあ」と、しみじみ人を嬉しくさせてくれる作品です。芝居が好きな人、芝居を好きになりたい人に。
Simon Winchester, The Professor and the Madman: A Tale of Murder, Insanity, and the Making of the Oxford English Dictionary (Harper Perennial, 2005), 288pp.
Oxford English Dictionary(OED)が編纂された際、ボランティアで用例集めに協力した多くの一般の人々がいたということはよく知られているが、中でも突出して多くの用例を集めた人物がいた。この小説は、暗い過去を持つこの人物と辞書編纂の中心にいたJames Murrayとを巡って繰り広げられる実話に基づく物語で、話自体も面白いが、それに加え、19世紀後半にOEDの編纂がどのように行われていたのかも垣間見ることができ、そういった意味でも興味深い。『博士と狂人』というタイトルで日本語訳も出版されているが、原文で読んでみると良いだろう。メル・ギブソン主演で映画化の予定もあり撮影もほとんど終わっているそうだが、諸事情により未公開(2018年4月末現在)。なお、この小説はもともと1998年にイギリスでThe Surgeon of Crowthorneというタイトルで出版されたが、アメリカおよびカナダで出版された際に上のようなタイトルに変更されている。
夏目漱石『文芸評論』上・下(岩波文庫、1985年)、262+322頁
夏目漱石は小説も良いが、個人的には小説以外の作品の方が面白い気がしている。英文学者だった漱石は英文学に関する本も複数出版しているが、『文学論』は極めて難しく退屈な本で全くおすすめできない。一方、18世紀以降の近代英文学を中心的に扱った『文芸評論』は、独断と偏見を交えた軽妙な語り口が印象的で、私のようにイギリス文学を専門としているわけではない者でも非常に面白く読める。漱石流「英文学史」の一端を垣間見ることができる名著だと思う。
Ken Follet, The Pillars of the Earth (Macmillan, 1989), 1076pp.
これは12世紀後半のイングランドを舞台とする歴史小説で、大聖堂を作る石工の棟梁を主人公に話が展開する。物語の舞台はロマネスク様式からゴシック様式へ、大聖堂の建築様式が移り変わる時代であり、また、ヘンリー2世王とカンタベリ大司教トマス・ベケットとの対立が大司教暗殺事件にまで発展するといったような大事件が起きた時代でもあるが、そういった歴史的背景と物語とがうまく絡み合って、かなり長い話にもかかわらずあっという間に通読できてしまうほど刺激的で面白い。架空の町で建設される架空の大聖堂をめぐる物語だが、イングランド南西部のウェルズ大聖堂がモデルとなっていると言われている。『大聖堂』というタイトルで日本語訳も出ているが、原書で読むことをおすすめする。
森見登美彦『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店)
「本を読むのが苦手」という人にまずおすすめの一冊を。大学のキャンパスで、古本市で、夜の飲み屋街で、意中の人の姿を追い求め、偶然の出逢いを演出しつづける大学生が、京都の街を舞台に(小)冒険を繰り広げる物語です。大学生の等身大の心情に、思わずニヤリとしたり、恥ずかしくなったり、ときに爽快な気分になったりと、とにかく楽しみながら読める作品です。
山田太一『岸辺のアルバム』(角川書店、小学館など)
大学生の頃、大講義室の片隅で(講義と全く関係のない)この本を読み終え、目頭が熱くなったことを覚えています。1974年に起こった多摩川の氾濫を題材とする、ある家族の崩壊と再生の物語です。ドラマ化もされ、今でもネットでその映像を見ることができますが、ジャニス・イアンの甘い調べに乗せて家々を呑み込む濁流を描いたオープニング映像も、ぜひ併せてご覧ください。
ウィリアム・フォークナー『響きと怒り』(平石貴樹・新納卓也訳、岩波書店)
「これから先、何度も読み返すであろう本は何か」と聞かれたら、迷わずこの本を挙げます。精神障害を抱える主人公のひとり、ベンジーの視点で語られる作品の序盤は、とくに場面や会話が極端に入り乱れ、初読者にはきわめて難解に感じられるかもしれませんが、じっくり、ゆっくり、読み進めてゆくと、その世界観に圧倒されます。間違いなく、文学史上最高傑作のひとつだと思います。
高山宏『殺す・集める・読む——推理小説特殊講義』(東京創元社)
最後に、小説ではなく小説論を。江戸川乱歩や松本清張、横溝正史、アガサ・クリスティー、コナン・ドイルといった作家の推理小説をとおして文学に親しんできた身として、推理小説好きの学生にぜひ読んでほしい一冊です。小説の断面から近代という時代の相を浮かび上がらせる手法はスリリングそのもの。(松本清張ではありませんが)点と点がつながって線になる知的昂奮を存分に味わってみてください。
研究者としては情けない限りですが、昔から抽象的思考とか論理の組み立てとかいうやつが不得手で、今でも学術書のたぐいは読んでもなかなか身になってくれません。いっとき理屈は分かった気がしても、しばらくたつともうダメ。でも、こうして中年になってみると、学生の頃よりは腑に落ちる部分がほんの少し多くなったかなという気もします。「理解する」ではなく、「腑に落ちる」。自分の(乏しい)人生経験から類推して、そうだよな、きっとそうなんだろうなという感じがすると言えばいいでしょうか。というわけで今回は、ふだん授業で扱っている英文学以外から、世界が多少とも腑に落ちる感覚を私に与えてくれた書物を紹介させてください。
斎藤秀三郎『熟語本位英和中辞典』(岩波書店)
『NEW斎藤和英大辞典』(日外アソシエーツ)
1929年に亡くなった英語学者の作った辞書というと、いかにも現代では物の役に立たなそうですが、これが実に有益。現代的で優秀な辞書はいくつもあるけれど、日本語が持っている心のヒダを英語の心のヒダと重ね合わせるセンスと味わいにかけては、斎藤の両辞書にいまだ勝るものなし。読ませる力、読者を引き込む力は無双。私のように翻訳にたずさわる人間にとっては、ついつい硬直しがちな訳文をほぐすヒントを常に与えてくれる偉大なトレーナーです。例えば、do wrongを「不正なことをする」でなく、『熟語本位英和中辞典』のように「曲がったことをする」と訳されると、なにか思考が身体化されたような——平たく言えば「腑に落ちる」——感じがしませんか?いや、翻訳だけじゃないぞ、あらゆる文章は読み手の「腑に落ち」なければならないのだと、ページから斎藤先生の肉声が聞こえてきそう。
1929年に亡くなった英語学者の作った辞書というと、いかにも現代では物の役に立たなそうですが、これが実に有益。現代的で優秀な辞書はいくつもあるけれど、日本語が持っている心のヒダを英語の心のヒダと重ね合わせるセンスと味わいにかけては、斎藤の両辞書にいまだ勝るものなし。読ませる力、読者を引き込む力は無双。私のように翻訳にたずさわる人間にとっては、ついつい硬直しがちな訳文をほぐすヒントを常に与えてくれる偉大なトレーナーです。例えば、do wrongを「不正なことをする」でなく、『熟語本位英和中辞典』のように「曲がったことをする」と訳されると、なにか思考が身体化されたような——平たく言えば「腑に落ちる」——感じがしませんか?いや、翻訳だけじゃないぞ、あらゆる文章は読み手の「腑に落ち」なければならないのだと、ページから斎藤先生の肉声が聞こえてきそう。
加藤陽子『戦争まで——歴史を決めた交渉と日本の失敗』(朝日出版社)
高校までの歴史の授業とそれ以降の読書では、どうして日中戦争が太平洋戦争につながってゆくのか私にはさっぱり理解できませんでした。なんで日本は中国と戦争している上にアメリカとまでおっ始めたんだ、という疑問に、腑に落ちる形の回答を与えてくれたのはこの本が初めてです。そうか、ここで日本は欲をかいてしまったんだな、ここで虚勢を張ったから引っ込みがつかなくなってしまったんだな、という卑近なレベルで本書は歴史の流れを私の腑に落としてくれたのですが、そんな読者からもっと突っ込んだレベルで考察を深めたい層に至るまで、幅広いニーズに応えてくれる一冊でもあります。姉妹編に『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社)。
大西巨人『神聖喜劇』(光文社文庫)
圧倒的。小説というものに打ちのめされ、言語表現が持っている可能性に驚愕したいなら、これは外せません。旧日本陸軍の内務班(下士官から兵までによって組織される居住単位)を主な舞台として、軍隊の日常に生起する小さな事件の中から、日本人の弱さとしぶとさ、根深い病理と意外な健全さ、大勢順応的な小ずるさとあざなえる縄のごとく絡みあった正義の心がえぐり出されてゆきます。ほとんど常軌を逸したレベルで正確と几帳面を追求しつづける特異な文体を駆使して、とことん「腑に落ちる」具体性を伴いつつ日本というシステムの特性がじりじりとあぶり出されてくのですが、その執拗なプロセスから立ちのぼってくる摩訶不思議なユーモアと喜劇性は他に類を見ません。主役・脇役たちのキャラの立ち方も絶妙。数ヶ月の出来事の描写に分厚い文庫本5冊のスペースを費やす執念の書なので最初はなかなかシンドイでしょうが、ひと山こえるとハマります。暇と体力があるうちにぜひチャレンジを。
ツヴェタン・トドロフ著、及川馥訳『他者の記号学』(法政大学出版局)
他者への倫理に言語論から斬り込む壮絶な一冊。アメリカ大陸の征服史を辿ることで、西洋が他者を喪失した過程を検証する。
笙野頼子『硝子生命論』(河出書房)
愛の挫折を乗り越えようとする女が作った死体人形の物語。だがその奥には「国家」と「個人」の間に横たわる深い溝が問いただされる。
アドリエンヌ・リッチ著、大島かおり訳『血、パン、詩』(晶文社)
現代アメリカを代表する詩人・フェミニストの論集。女であることが一人の人間に迫った苛烈な社会意識の記録と、連帯への飽くことなき希望は読む者の胸を激しく打つ。
Stein, Gertrude. Three Lives (New York: Echo Libraryなど)
自らはアメリカに安住することのできなかったユダヤ人/レズビアン作家の小説。彼女が「典型的なアメリカ人の物語」の創作を志した時、最初に描かずにはいられなかったのが、この三人の女の悲劇だったという。
この世は言葉でできている。
それが「テクスト」と呼ばれようと「記号」と呼ばれようと。あるいは「母語」であろうと「第二言語」であろうと。はたまた「ロゴス」と言いかえられようと「言説」(ああ懐かしい言葉!)と言いかえられようと、何ら変わるところはない。この世は言葉でできている。
いや、あの世もしかり。あの世を見た人は(たぶん)いない。見ていない以上、あの世のことは言葉を通して語られ想像されてきたのである。あの世を描いた絵画でさえ、じつは言葉を通して理解咀嚼されてきたのである。
読書の醍醐味は、この言葉を生のまま満喫できることだろう。すみずみまでしゃぶりつくせることだろう。せっかくのごちそうが、いまそこにある。上げ膳、据え膳の状態だ。めいっぱい頰ばって堪能しようではないか、ちゅぱちゅぱと、むしゃむしゃと。
まずは呉承恩『西遊記』君島久子訳、全三巻(福音館文庫)はどうだろう。ごぞんじ孫悟空の物語だ。「小学校上級以上」とされているが、なめてはいけない。如意棒や觔斗雲をあやつる悟空が、三蔵を護らんと身を挺して妖怪変化と戦う、その物語が息もつかせぬ冒険譚になっているだけでなく、その冒険を語る言葉がほれぼれするくらい格好いいからだ。颯爽としている。筋肉が引き締まっていて美しい。言葉のままにしておくにはもったいないくらいだ。おかげで「東勝神州傲来国、花果山水簾洞(とうしょうしんしゅうごうらいこく、かかざんすいれんどう)」という悟空の出自の決まり文句さえ魅惑的にひびくからおもしろい。
このような格好いい言葉が操れるようになれば百人力である。大学の授業のレポートに使える。(教員はよろこんで高い評点をつけるだろう。)社会人になれば企画書にも使える。(先輩たちの提案を差しおいて、自分の提案がすんなり通るだろう。)ラブレターにももってこいだ。(たとえが古いのは赦されよ。)
読書好きが昂じて言葉の味にうるさくなれば、おのずと文字にもうるさくなるはずだ。「明朝体はやはりクラシカルな秀英体がいい」とか「秀英体は古すぎる。石井明朝がいちばんバランスがいい」とか言いだすようになる。あるいは、「のっぺりとした写植は読む気がしない。紙面をくぼませ、文字の輪郭にインクがたまる活版でなければ眼が疲れる」とのたまうようになれば、もはや病膏肓にいる按排だ。手の施しようがない。
さほど中毒を患っていなくとも、小谷充『市川崑のタイポグラフィ』(水曜社)は興味ぶかいのではないか。市川崑監督による映画『犬神家の一族』(1976)等のタイトルやクレジット表記に使われた、あのL型配置の特太巨大な明朝体表現に関する研究である。(「タイポグラフィ」とは文字づかいの意。)じつは、この明朝体の用法は、庵野秀明監督のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)にも踏襲され、さらに近年では、鎌池和馬の小説『とある魔術の禁書目録』(2004~2010)がテレビアニメ化されたとき(2008~2011)のタイトルロゴにも応用された。目に浮かぶはずだ。文字そのものがもつ呪術的魔力を最大限に活用した手法である。本書は、文字という単なる平面上の描線がもつ、この不思議な喚起力を映像作家の市川崑が認めていたことを詳細に解き明かしている。奇書のひとつといえるだろう。
ここまで言葉の力、文字の力を紹介した。最後に詩の力にふれたい。ダンテ『神曲』平川祐弘訳、全三巻(河出文庫)はどうだろう。ちょっと長すぎる。そう思うのなら、最初の「地獄篇」だけでもかまわない。続けて「煉獄篇」「天国篇」も読みたくなること請けあいだから。ちょっと古すぎる。そう怖がりなさるな。各歌の前に要約が付記されているし、各歌の後には、細かな訳注も加えられているから。しかも訳文は現代語訳であるから。(ダンテ自身、文語のラテン語ではなく、口語のトスカーナ語を使っていた。)
かつてアメリカの詩人ロバート・フロストは、翻訳すると失われるものを詩と定義した。他方、ギリシャに生まれ、アイルランド、アメリカをへて来日し小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンは、偉大な詩は他国語(の散文)に翻訳しても偉大である、と断じた。どちらが普遍的に正しいのかわからない。しかし少なくとも『神曲』に限っていえば、ハーンに軍配があがることは明らかだ。『神曲』は日本語訳でも英語訳でも圧倒的だからである。
阿鼻叫喚の地獄絵図、という決まり文句がある。でも『神曲』を読んでごらん。単なる言葉なのに、「絵図」以上に絵図が心に浮かぶから。「絵図」以上に叫喚の響きが耳に聞こえてくるから。そうか、単なる言葉なのに言葉を超えたもの、それが詩というものなのか、と体感させてくれるのがこの『神曲』である。
それが「テクスト」と呼ばれようと「記号」と呼ばれようと。あるいは「母語」であろうと「第二言語」であろうと。はたまた「ロゴス」と言いかえられようと「言説」(ああ懐かしい言葉!)と言いかえられようと、何ら変わるところはない。この世は言葉でできている。
いや、あの世もしかり。あの世を見た人は(たぶん)いない。見ていない以上、あの世のことは言葉を通して語られ想像されてきたのである。あの世を描いた絵画でさえ、じつは言葉を通して理解咀嚼されてきたのである。
読書の醍醐味は、この言葉を生のまま満喫できることだろう。すみずみまでしゃぶりつくせることだろう。せっかくのごちそうが、いまそこにある。上げ膳、据え膳の状態だ。めいっぱい頰ばって堪能しようではないか、ちゅぱちゅぱと、むしゃむしゃと。
まずは呉承恩『西遊記』君島久子訳、全三巻(福音館文庫)はどうだろう。ごぞんじ孫悟空の物語だ。「小学校上級以上」とされているが、なめてはいけない。如意棒や觔斗雲をあやつる悟空が、三蔵を護らんと身を挺して妖怪変化と戦う、その物語が息もつかせぬ冒険譚になっているだけでなく、その冒険を語る言葉がほれぼれするくらい格好いいからだ。颯爽としている。筋肉が引き締まっていて美しい。言葉のままにしておくにはもったいないくらいだ。おかげで「東勝神州傲来国、花果山水簾洞(とうしょうしんしゅうごうらいこく、かかざんすいれんどう)」という悟空の出自の決まり文句さえ魅惑的にひびくからおもしろい。
このような格好いい言葉が操れるようになれば百人力である。大学の授業のレポートに使える。(教員はよろこんで高い評点をつけるだろう。)社会人になれば企画書にも使える。(先輩たちの提案を差しおいて、自分の提案がすんなり通るだろう。)ラブレターにももってこいだ。(たとえが古いのは赦されよ。)
読書好きが昂じて言葉の味にうるさくなれば、おのずと文字にもうるさくなるはずだ。「明朝体はやはりクラシカルな秀英体がいい」とか「秀英体は古すぎる。石井明朝がいちばんバランスがいい」とか言いだすようになる。あるいは、「のっぺりとした写植は読む気がしない。紙面をくぼませ、文字の輪郭にインクがたまる活版でなければ眼が疲れる」とのたまうようになれば、もはや病膏肓にいる按排だ。手の施しようがない。
さほど中毒を患っていなくとも、小谷充『市川崑のタイポグラフィ』(水曜社)は興味ぶかいのではないか。市川崑監督による映画『犬神家の一族』(1976)等のタイトルやクレジット表記に使われた、あのL型配置の特太巨大な明朝体表現に関する研究である。(「タイポグラフィ」とは文字づかいの意。)じつは、この明朝体の用法は、庵野秀明監督のテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)にも踏襲され、さらに近年では、鎌池和馬の小説『とある魔術の禁書目録』(2004~2010)がテレビアニメ化されたとき(2008~2011)のタイトルロゴにも応用された。目に浮かぶはずだ。文字そのものがもつ呪術的魔力を最大限に活用した手法である。本書は、文字という単なる平面上の描線がもつ、この不思議な喚起力を映像作家の市川崑が認めていたことを詳細に解き明かしている。奇書のひとつといえるだろう。
ここまで言葉の力、文字の力を紹介した。最後に詩の力にふれたい。ダンテ『神曲』平川祐弘訳、全三巻(河出文庫)はどうだろう。ちょっと長すぎる。そう思うのなら、最初の「地獄篇」だけでもかまわない。続けて「煉獄篇」「天国篇」も読みたくなること請けあいだから。ちょっと古すぎる。そう怖がりなさるな。各歌の前に要約が付記されているし、各歌の後には、細かな訳注も加えられているから。しかも訳文は現代語訳であるから。(ダンテ自身、文語のラテン語ではなく、口語のトスカーナ語を使っていた。)
かつてアメリカの詩人ロバート・フロストは、翻訳すると失われるものを詩と定義した。他方、ギリシャに生まれ、アイルランド、アメリカをへて来日し小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンは、偉大な詩は他国語(の散文)に翻訳しても偉大である、と断じた。どちらが普遍的に正しいのかわからない。しかし少なくとも『神曲』に限っていえば、ハーンに軍配があがることは明らかだ。『神曲』は日本語訳でも英語訳でも圧倒的だからである。
阿鼻叫喚の地獄絵図、という決まり文句がある。でも『神曲』を読んでごらん。単なる言葉なのに、「絵図」以上に絵図が心に浮かぶから。「絵図」以上に叫喚の響きが耳に聞こえてくるから。そうか、単なる言葉なのに言葉を超えたもの、それが詩というものなのか、と体感させてくれるのがこの『神曲』である。
作家の自己形成を描く小説は枚挙にいとまがないし、雑誌・新聞社で働く人が登場する物語も、多くの人がいくつか頭に浮かべることができるのではないだろうか。だから、仮に知り合いにいなくても、私たちはこういった人たちのことをある程度知っているように感じる。一方で、紙を折って綴じ、表紙をつけて本を「作る」人のことは些か謎めいた存在に思えるかもしれない。小説の読者が作品の中で製本家やブックデザイナーに出会うのは稀なことだ。最近、人の記憶を本に「綴じ」込めるのを生業とする「バインダー」の弟子を主人公にしたBridget CollinsのThe Binding (2019) が一定の注目を集めたが、このファンタジー小説のほかに本を作る人がしっかり出てくる物語というと、ちょっと探してみてもヘンリー・ジェイムズの『カサマシマ公爵夫人』(1886)とアーノルド・ベネットのThe Roll-Call (1918) くらいしか見当たらない。しかし、物理的な媒体としての本をデザインし、作り、修復することと、それに従事する人たちのことは、読者である私たちにとってもっと身近であってもよいのではないか。ここでは、まずこうした(知られざる?)本づくりに携わる人々に関する本を紹介したい。
栃折久美子『モロッコ革の本』(筑摩書房)
小説に出てこないのであれば、ノンフィクションに目を向ければよい。とはいえ、製本に関する専門書に手を伸ばせと言うのではない(もちろんそうしてもよいのだけれど)。回想録・メモワールと呼ばれる文学を渉猟すると、製本家、書籍修復家の手になる作品に巡り合うことができる。西洋の工芸製本を日本に紹介した栃折久美子の『モロッコ革の本』(1975年)がそのひとつだ。ブックデザイナーである栃折は伝統的工芸製本を学びにベルギーを訪れた。その際の経験を描く本書は、旅行記とも、自伝とも、(スマートフォンなどあるはずもない時代の)留学体験記とも取れる作品であると同時に、本を作る人々の世界を垣間見させてくれる文章でもある。その語りは軽妙なエッセイや手紙、日記などの形を取り、ラ・カンブルの学校やロシアの亡命貴族チェケルール先生のもとでの著者の奮闘ぶりを伝える。製本について具体的な話がたくさん出てくるわけではないけれど、それを仕事とする人たちの情熱や思想を知ることができる一冊であり、読書をする人ならだれでも一読の価値があるといえるだろう。
Annie Tremmel Wilcox, A Degree of Mastery: A Journey through Book Arts Apprenticeship (1999)
栃折の本のほかにはこれが面白い。『古書修復の愉しみ』というタイトルで、2004年に白水社から邦訳も出ている。著者のウィルコックスはアイオワ大学の博士課程の大学院生でありながら、同大学にやってきた名工ウィリアム・アンソニーに弟子入りし、大学図書館が所蔵する稀覯本の修復を通して古い本を後世へと伝える術を学ぶ。こちらはより専門的な記述が多いが、素晴らしいことにそれでいて可読性が損なわれていない。もしかすると、本書は読者が製本に興味を持つきっかけとなるかもしれない。もしそうなったら、先に紹介した栃折の『手製本を楽しむ』(1984)をはじめとした本づくりの入門書にも手を出してみるとよいだろう。そうして本の物理的な構造を学んだ人が増えて、アイオワ大学図書館の『キップリング全集』が受けたようなひどい仕打ちが少しでも減ったなら、大変喜ばしいことである。
ここまで、本を作る/直す人に関する本を2冊紹介した。自伝や伝記はこのように、小説ではあまり出会えないかもしれない人と遭遇するきっかけになってくれる点で興味深い。ところで、このジャンルに属する本の中には、ウィルコックスやアンソニーが心血を注いで修復していたような稀覯本や奇書の類に取り憑かれた著者による探求も見つけることができる。次にそれを紹介しよう。
A. J. A. Symons, The Quest for Corvo (1934)
1922年に「ファースト・エディション・クラブ」を立ち上げ、自らも初版本の蒐集家だったシモンズは、本屋を営む友人のミラードから『ハドリアヌス七世』という小説を借りる。この一冊との出会いが、シモンズをその謎めいた著者コルヴォー男爵の探索へと駆り立てる。その結果が本書だ。偉人の生涯を追従的に物語る(多くの人が「典型的」だと呼ぶであろう)伝記とは一線を画するこの作品は、まるで探偵小説であるかのように読者にページをめくらせる。1934年出版とは思えないほど新鮮な読み物である(これが戦間期に書かれたというのは実は全くおかしなことではないのだけれど)。『コルヴォーを探して』というタイトルで2012年に白水社から邦訳が出ているので、原書で読むのはつらいという人もぜひ手に取ってみてほしい。
Virginia Woolf, Orlando: A Biography (1928)
最後に、『コルヴォーを探して』と並んで大変面白い「伝記」として、ヴァージニア・ウルフの『オーランドー』を紹介したい。英国のモダニズムを代表する作家のひとりであるウルフは、ホガース・プレスという出版社を夫とともに経営し、20世紀前半の重要な作品をいくつも世に送り出したのみならず、自ら蔵書を修理・再製本するという製本家としての顔も備えていた。この側面は残念ながら彼女の残した著作にはあまり反映されていないが、この作品(日本語訳は杉山洋子によるものを含め複数ある)はそれを補って余りある豊かさを有している。エリザベス一世の時代に貴族の美少年だった主人公が、300年余りの時を経て20世紀を生きる女性となるのを描くこのファンタジーは、フェミニズムの古典であるA Room of One’s Own (1929) の前年に出版されたものであり、ジェンダー・セクシュアリティに関する議論を面白おかしく、かつ真剣に、展開している。また本書は伝記作家リットン・ストレイチーの『ヴィクトリア朝偉人伝』(1918)に代表される「新伝記」の流れをくむテクストでもあり、皮肉たっぷりに語り手である「伝記作家」が伝記の対象に振り回されるさまを描いてもいる。そのため、本作はしばしば「メタ伝記」とも呼ばれる。さらに、この作品はある種のイギリス文化史でもあり、16世紀から20世紀初頭にいたるまでのイギリス文学への言及にも満ち溢れている。このように、様々な側面を有する『オーランドー』は、きっと何らかの形で読者を楽しませてくれるはずだ。ウルフの代表作であるMrs Dalloway (1925)やTo the Lighthouse (1927)、先に言及したA Room of One’s Own、あるいはいまひとつの「伝記」であるFlush: A Biography (1933)と併せてぜひ読んでみてほしい。
『オーランドー』以外にここで紹介したウルフ作品にも邦訳がある。Mrs Dallowayは『ダロウェイ夫人』の邦題で、丹治愛によるものをはじめとした複数の訳がある。To the Lighthouseも『灯台へ』(あるいは『燈台へ』)というタイトルで何度も訳されている。A Room of One’s Ownは、2015年に片山亜紀による新訳(『自分ひとりの部屋』)が出版された。Flushも出渕敬子訳のほか、2021年出版の岩崎雅之訳(『フラッシュ ある犬の伝記』)がある。
The Waste Land —T. S. Eliot (1922)
One of the central and most influential figures in literary history is the American-English poet, playwright, and critic T. S. Eliot. Eliot’s most innovative poem The Waste Land has remained essential reading for all scholars and students of literature since its publication over a hundred years ago, and can still be recommended for many reasons. This 434 line poem offers a fast, highly dynamic introduction to modern poetry in its experimental stylistic techniques of multiple voices, isolated fragments, literary and cultural allusions (from Dante, Chaucer, and Shakespeare to modern art, Jazz, and twentieth century London life), and in its eternal relevance to the complexities of contemporary intercultural experience. Written in the contexts of the devastation of the First World War and the crises in Eliot’s personal life, The Waste Land is usually considered by critics as one of the greatest artistic commentaries on humanity’s relation to modern history, world religion, and the pressures of private identity. Yet, despite engaging with these difficult themes, the poem’s ultimate value resides in its many lines of very beautiful and enjoyable lyric poetry.
Waiting for Godot —Samuel Beckett (1953)
When the play En Attendant Godot, the original French version of Waiting for Godot, was first performed in Paris on 5 January 1953, it began to receive the first responses of astonishment, outrage, and also admiration, which greeted the early performances of the play around the world. Beckett’s strange but revolutionary first full length drama, (in which ‘nothing happens, twice’ - Vivian Mercer), is now considered to be probably the most influential and significant play of the post-Second World War period, and the five characters - Vladimir, Estragon, Pozzo, Lucky, and the mysterious Boy - have become as critically discussed as any characters in theatre history, as has the fact that Godot never appears. Vladimir and Estragon’s discussions - of God, nothingness, memory, the act of waiting, the aging human body, time, survival, and death - and the play’s extraordinary physical and verbal rituals of humour and violence offer a highly accessible version of the philosophical and artistic force of Beckett’s tragicomic vision of human existence.
In Patagonia —Bruce Chatwin (1977)
With the publication of the account of his ambitious six-month journey in the mid-1970s around the South American region known as Patagonia, Bruce Chatwin quickly became one of the UK’s most celebrated travel writers. Chatwin left England on a quest to track down evidence of an extinct creature - the Mylodon - related to him in childhood stories by his grandmother, whose cousin Charley Milward the sea captain, had settled in Patagonia and sent a fragment of the beast’s skin to her home. However, the 97 little sections of this short but beautifully written work extend far beyond merely a personal retelling of a romantic adventure, but instead contain rich but concise descriptions of vivid encounters with the multicultural inhabitants and exiles of Patagonia, and give countless fascinating and intense details of the region’s history, mythology, geography, and nature, spanning great distances in time and location. In Patagonia also established Chatwin as a great stylist of clear, precise English prose, which is perhaps the main reason to recommend this extraordinary book, along with its marvelous, atmospheric photographs.
Claude Lévi-Strauss, Myth and Meaning: Cracking the Code of Culture (1978).
Based upon a series of lectures delivered in 1977, Lévi-Strauss's Myth and Meaning is an ideal introduction to the theories of one of the 20th century’s most influential social anthropologists. In five brief chapters, Lévi-Strauss explains the basis of the theoretical split between mythology and science; he compares “primitive” thought to the “civilized” mind; he deconstructs the binary nature of myth; he investigates the relationship between myth and history; and he concludes with an analysis of myth and music. Easy to read and packed with valuable insights into the symbolic structures of culture, this text is essential reading for any student of anthropology, history, philosophy, or literature.
Cormac McCarthy, Blood Meridian, or The Evening Redness in the West (1985).
As an undergraduate in the United States, I was assigned this novel as a part of a course entitled, “Storying the American West.” This course also included texts by Mark Twain, Willa Cather, and Howard Zinn (among others) . . . but, the text that hit me the hardest was certainly McCarthy's Blood Meridian. From the very beginning, this novel drags the reader into a nightmarish episode involving a ragtag gang of gunmen smashing, burning, murdering, scalping, and blasting their way across the borderlands between the US and Mexico during the nineteenth century period of American westward expansion. Written in a brutal, matter-of-fact style, McCarthy’s novel reveals the bloody, gruesome truth behind the myth of the American West and the white-washed legends of the prairie gunfighter. Though horrible to imagine and painful (at times) to read, Blood Meridian offers an unapologetic glimpse into the cruel history of a nation founded upon racism, slavery, treachery, and bloodshed.
Cather, Willa. My Ántonia. 1918. New York: Signet Classics, 2005.
甘い抒情と郷愁の裏側に、冷たい懐疑と諦念が滲む奥の深い小説です。米国では人口に膾炙した作品であり、マリリン・モンローの蔵書にもこの本が含まれていました。
平石貴樹編『しみじみ読むアメリカ文学——現代文学短編作品集』(松柏社)
難しい本は読みたくない、けれども流行りの通俗小説では物足りない、という人にぜひお薦めします。ここには、文学の原点があります。お気に入りの短編を見つけて下さい。
鹿野政直・香内信子編『与謝野晶子評論集』(岩波文庫)
歌人・詩人として名高い与謝野晶子のエッセイ集です。この一冊を読めば、ジェンダーとは何か、フェミニズムとは何か、人生とは何かが分かります。永遠に新しい古典です。